ハイドン研究室

弦楽4重奏曲の部屋・別室

BGM/Hoffstater String Quartet G-Dur (Op.3-3) 4th mov.

ここに載せました文章は、以前パソコン通信のNifty Serve音楽フォーラム・クラシックへ投稿いたしました、ハイドンの弦楽4重奏曲に関する小論文です。掲載にあたりまして、若干手を加えてあります。


目 次


ハイドンの作品1,作品2の弦楽4重奏曲についての考察

ハイドンの作品1,2の弦楽4重奏曲を、詳しく調べてみました。従来の説に作曲家としての視点を加えた形で当時の状況について考察してみたいと思います。

はじめにお断りいたしますが、本稿を書くにあたりまして、いくつかの書物、及び楽譜を参考にしておりますが、直接の引用は一切用いておりません。

主に参考にした書物は次の2冊です。

まず従来の説を下敷きにしました概説を簡潔にご説明するのが筋道と思います。この作品1と2は6曲ずつの弦楽4重奏曲となるのですが、作曲されてからそれほど期間が経過していない時期(1764年〜66年)に、相次いで、少なくともウィーン(フンメル版)、パリ(シュヴァルディエル版)、ロンドン(ブレンナー版)で異なる出版社から出版されています。当時この曲種が爆発的な評判を呼んだ様子が想像されます。

おそらくウィーンのフンメル版はハイドンの承諾のもとに出版されたと思われます。ロンドンのブレンナー版は、フンメル版に基づいて出版されていますので、ハイドンが直接承諾したかどうかに関わらず正規のものと考えられます。しかし、パリのシュヴァルディエル版は、今で言う海賊行為で出版されたようです。このシュヴァルディエル版は、一部で曲順が異なっているのはまだしも、作品1と2共に、全く違う曲が1曲ずつ混入しています。

この混入した2曲がどういうものかと言いますと、作品1に混入した曲は、ハイドンの作曲ではありますが、交響曲として作曲した作品(交響曲第107番/このサイト、そしてフィルハーモニア版のスコアでは”A”という番号を付けてあります)を弦楽パートだけにしてしまった曲です。作品2に混入した作品は全く別人の作と判明しています。そんな訳で、作品1と2に該当する曲は全部で14曲となってしまうのですが、混入した2曲は曲調的には全くの問題外ですので、そんなに大きな問題はおこらないように思われます。しかしながら、後の1801年にプレイエルによって刊行された「作曲者によって承認され、出版順に整理された弦楽4重奏曲集」(プレイエル版)で、作品1の曲集の方を、何の間違いか、海賊出版社のシュヴァルディエル版の曲順を採用してしまい、しかも後の人々が(当然の事ながら)それを正しいと思い込んだため、かなりの混乱が見られることになりました。即ち、本来ならば交響曲であるはずの曲(交響曲”A”すなわち107番)が、長らく作品1の5と呼び習わされていて、片やシュヴァルディエル版では欠落していた、本来ならば弦楽4重奏曲であるはずの曲が、別種の曲(5声ディベルティメント)として分類されていて、長い間気が付かれないでいた、という事情となります。この欠落していた曲は、弦楽4重奏曲と判明した後、便宜的に作品1の0という番号で呼ばれるようになりました。作品2の曲集では、幸いなことにフンメル版が採用されていますので、その種の混乱は起こっていません。

ところが、その作品2でも別の問題があります。それは、正規の刊行と思われるフンメル版の、3曲目と5曲目の2曲が、実際はホルン2本を加えた6声部のディベルティメントであったことが判明したことです。双方の楽譜を比較してみますと、ホルンで演奏されるべきフレーズを、ヴィオラ等に振り替えていたり、ホルンの活躍する部分を数小節の単位でカットしたり、という形の、小規模なアレンジが何者かの手によってなされている事が確認出来ます。

以上の事から、フンメル版の作品1と2の12曲から、ホルン入り6声部ディベルティメントの2曲を除いた10曲が、ハイドンの初期の弦楽4重奏曲の全貌であるという結論が下され。現在の定説となっております。

 

さて、私は作品1と2に関わりのある14曲の内、偽作である1曲(この曲も興味があるのですが、まだ入手するには至っておりません。現在出版されている形跡は無く、図書館、資料館の類を探しまわればあるかも知れませんが、その時間がとれないでいます)を除いた13曲の楽譜を入手して、詳しく調べてみました。

13曲の内、前述の、本来交響曲(”A”ないしは第107番)である作品(作品1−5)は、全くスタイルそのものが異なりますので、ここでは何ら問題にする点はありません。初期の交響曲(蛇足ながら、104番までの番号が付けられた後に、交響曲と判明した作品ですので、番号はその後に加えられた形になっていますが、最初期の作品にあたります)としては、なかなかの佳曲なのですが、管楽器や通奏低音を取り去った形にしてしまうと、曲の良さが十分に発揮されているとは思えない情けない曲に変貌してしまいます。

さて、残りの12曲を子細に眺めてみますと、6声ディベルティメントとして外されたはずの2曲が、スタイル的に全く違和感が無い点に驚かされます。そして音楽的な内容、及び演奏技術上の問題が、作品1より作品2の方が明らかにはっきりと進歩しているのがわかることも注目すべき点と思います。

従来の説を知識として知った限りにおいては、10曲(ないしは12曲)が、ほとんど同時期に書かれた、似たようなスタイルを持った作品群と考える方が順当と思われます。

そこで、もう一度そのつもりになって、よく調べてみると、作品1の6曲の中に、すでに音楽的な進歩の跡が見られる事がわかりました。どうも作品1は、一曲書いては検討し、吟味して、それを次の曲に反映させて書く、という作業を繰り返しているように思われますし、期間的にもかなりの時間をかけて少しずつ書き足していったような気配が感じられるのです。綿密に研究すれば実際の作曲順が、かなりの確率で推定出来るように思います。

 

さて、私がいろいろと考える事となった出発点は、上記の6声部のディベルティメント2曲を、全く別ジャンルの作品として外すべきかどうか、という点に端を発しています。結論から先に書きますと、この2曲は、ハイドン自身が弦楽4重奏曲として演奏しても良いと考えていたのではないか、という気がしてならないのです。従いまして、前記の小規模なアレンジもハイドン自身の手になるのではないかという事になります。

時々、ディベルティメントと弦楽4重奏曲は別の曲種であるという議論がなされる事があります。しかし、実際のところハイドンは、現在弦楽4重奏曲と呼ばれている作品のタイトルをディベルティメントとしていた事が判明しています。ディベルティメントのタイトルは、ハイドンの初期の作品には、いろいろな曲種に付けられていました。それは、いわゆる室内楽全般に及ぶばかりではなく、交響曲と分類すべき作品も、ピアノソナタと呼ばれている作品も(正式にはクラヴィアソナタなのでしょうが)含まれています。つまり、ディベルティメントとは、ソナタ様式を持つ器楽作品の総称として使われていた名称であるというのが、正しい解釈で、ディベルティメントだから弦楽4重奏曲ではないと考えること自体がナンセンスなこととなります。

さらに初期の弦楽4重奏曲が本当に4人だけで演奏するためにのみ作られているのかどうかには多少なりとも疑念があります。これは、多くの学者が認めていることと認識していますが、初期の作品においては、少なくともコントラバスを加えても構わない、という書き方になっていると判断出来ます。もっと考えを推し進めれば、1パート2〜3人で演奏しても構わないし、ホルン等を適宜加えても構わない、という可能性だって否定出来ないと思います。

こうなってきますと、物事の順序として、本当に4人で演奏するために書いたのかどうかと言う点につきましても検証しなくてはならなくなります。しかし、ハイドンが弦楽4重奏曲を書いたきっかけにつきましては、ほぼ明らかになっています。簡略に書きますが、フュールンベルク男爵という音楽好きの貴族が、以前より自邸での音楽会を定期的に開催していて、その音楽会をさらに充実させるために、若手の有望な音楽家ハイドンに注目し呼び寄せたのが発端となります。ハイドンが赴いた時のメンバーは、男爵家の執事と司祭がヴァイオリン、後の有名な対位法家アルブレヒツベルガーがチェロと3人揃っていました。男爵は、ハイドンに対して、ハイドンがヴィオラを担当するという編成で演奏する曲を書かないかと勧めた、ということがわかっています。年代は1757年、ハイドン25歳の時ということで間違いないでしょう。つまり、最初から4人で演奏する事を前提として書かれていて、しかしながら、他の機会に演奏されるケースも想定して、コントラバスを加えるなどの可能性も考慮していた、というのが正解と考えられます。

この話から容易に想像がつく事なのですが、アルブレヒツベルガーは後の大家とはいえハイドンよりは4歳年下で、当時の肩書きはオルガニストだった事が判明しています。ヴァイオリンの2人は、かなりの年配とは想像できますが何と言おうともアマチュアであることは確実です。つまり、必然的にハイドンがレッスンをつけるような形で音楽会が進められていったに違いありません。それは、特にヴァイオリンの音形が、ほぼ順を追って、次第に技術的に高度になってくるように見えることからも推察出来ます。

そしてさらに考えを進めてみますと、もしもレッスンと言う形が存在していたのならば、ハイドンが必ずヴィオラを弾いていなければならないとは限らない、とも考えられます。このことに異論を挟む人はいないでしょう。と、考えてみますと、同時期に書かれたと考えられている、ヴァイオリン2台とチェロの編成の弦楽3重奏曲も男爵の私的演奏会と関連はありそうですし、やはり同じ時期のヴァイオリン2台とチェロを含むクラヴィア4重奏曲も関連があると考えて良さそうです(どちらの曲種もかなりの曲数が存在します)。ところが、この事を指摘した書物には今のところ出会っていません。特に新説とも思えないのですが、いかがなものでしょう?

 

さて、私は当初は、初期の10曲は男爵の提案に応える形で、短時間に次々と書き上げられて、たまたま10曲という数になり、後に大評判になり出版することになった時に適当な2曲を加えて12曲とし、それを6曲ずつ作品1と2として発表したと考えていました。そう判断するのが一番自然と思われる事については前述いたしました。

ところが、その12曲を詳しく見るにつれて、その判断は再考せざるを得なくなりました。その理由につきましては、繰り返しになりますが、1つは作品1と2の内容的な隔たりがあまりにも大きいこと、即ち、短時間で連続して書かれたとは考えられないということ。もう一つは、紛れ込んだ2曲が、たまたま紛れ込んだにしてはあまりにもスタイル適な共通性が高い、つまり作品2の6曲は初めから一連の作品として書かれていたのではないかと疑われることです。

こうなりますと、ディベルティメントの2曲は、たまたまホルン2を加えた形に編曲されたけれども、オリジナルは弦楽4重奏曲であるという可能性も検討しなければならなくなります。しかしながら、さすがにこの仮定は疑問でしょう。その根拠は全くの状況証拠のみなのですが、まず、この2曲に含まれる4つのメヌエット(書き忘れましたが、作品1と2の作品群は、メヌエットが2曲あり、全5楽章構成になっています)が、基本的に同じ調性のトリオを持っているという点です(1曲同主短調になっていますが)。つまり当時のホルンという楽器は、バルブの類を備えていませんので、曲の途中で転調している場合の対応が難しいのですが、その点が考慮されていると考えられます。

もう一つの根拠は、問題の2曲が3曲目5曲目である、という事からの推論です。つまり、6曲の弦楽4重奏曲の内の2曲が、たまたまホルンを加えた編成に編曲されたと仮定しますと、それが3、5曲目の2曲である確率はほんの3%程度のものです。しかし、4曲の真作に2曲の違うものを紛れ込ませようと明らかに意図した場合、まずほとんどの人が、その2曲を3曲目と5曲目の位置に持ってくるように配慮すると思うのです。その確率はどんなに少なく見ても、おそらく7割を超えるのではないでしょうか?(本心は95%と言いたい気持ちなのですが、そこまで言う必要も無いでしょう)。つまり曲順を考えた当人は(それがハイドン本人としても、出版社の誰かとしても)、問題の2曲が本来は違う作品である事を明確に意識していた、と考える方が妥当性を持つという結論になります。

それでは、これは出版社側が勝手にやったことで、ハイドン自身はあずかり知らないことであるかどうかという問題なのですが(もちろん私も初めはそうだと思っていたのですが)、この6曲があまりにもスタイルが似過ぎていて、とても偶然そうなっているとは思えなくなったということです。必ずや、ハイドン自身が6曲で一連の作品であると意識していたに違いない、という確信に近い思いを持つに至りました。少なくとも、この2曲があったから、不足の2曲を新たに作曲するには及ばないと考えたと判断いたします。実際のところは、ある日の演奏会でたまたまホルンを演奏出来る人が2人(観客として?)いたため、その2人が参加出来るように配慮した作品を用意したのが正解なのでしょう。このことは、もちろん実証することは困難で、ほとんど直感の世界であるのは十分承知しております。さらに、問題の2曲がどんなに他の10曲とスタイルが似ていても、やはり多少は編成的な規模の大きな作品としての要素を備えていることも、言及しない訳にはいかないでしょう。

 

さて、ここで、敢えて触れずにいたもう一つの問題について書きましょう。

それは曲順の問題です。現在のホーボーケンの番号はプレイエル版に基づいて付けられています。前述いたしましたが、そのプレイエル版の曲順は、作品1はシュヴァルディエル版、作品2はフンメル版によっています。フンメル版の作品2の方は、6声ディベルティメントの2曲は別途に考えるとして、残る4曲については曲順的には大きな問題は無いように思われます。

一方の、シュヴァルディエル版の作品1の6曲ですが、第5番が実は別ジャンルの混入であり、新たに判明した本来の5番にあたる曲に第0番という番号が与えられた、という問題があることは、上記の通りです。

ちょっと整理してみましょう。本来は、現在使われている番号で、0,1,2,3,4,6の6曲が、作品1を構成していて、曲順は1,2,3,4,0,6というのが、おそらくプレイエル版の目指した形、と考えられることになります。一方フンメル版の作品1の曲順は、かなり異なっていて、0,6,1,2,3,4という順番になっています。

実は、このフンメル版の曲順の方が実際の作曲順に近いのではないかと考えられるのです。私の見た感じでは、0,1の2曲、2,6の2曲、3,4の2曲と、順を追って音楽的な内容と、ファーストバイオリンの技術的な難易度が、進歩していくように思われるからです(これも私の直感としての話ですので、立証するとなると、とても困難ではあります)。しかし一方、どうも1番が最初の作品ではないかという感じがしてなりません。これも立証するのは大変なのですが、1番には、演奏者の技量のわからない状態で、取り敢えずこんな感じで・・・・・・という感覚がかなり濃厚に感じられるのです。

私の、現在考えている推定順は、1,0,6,2,3,4という順です。当然ながら、もう少し吟味を加えると、多少は入れ替わる可能性もあります。

 

さてさて、以上書き連ねてきましたことから、ハイドンの初期の弦楽4重奏曲及びその他の作品の成立事情を推理してみましょう。フュールンベルク男爵の私的な音楽会にハイドンが加わり、弦楽器の4人が揃ったのがおそらく1757年で間違いないでしょう。書き忘れる所でしたが、チェロ担当のアルブレヒツベルガーが先に男爵の所に呼ばれ、おそらく「だれか実力ある人物はいないか」と問われて、旧知のハイドンを推薦したというのが真相だと思われます。その時は、もちろん音楽家を招く訳ですので、謝礼は支払われたと思いますが、正式な雇用関係ではなく、アルバイト的なものだったと思われます。その直後に最初の弦楽4重奏曲が書かれます。これは1番の曲調からの推定です。

その後一気に10曲が次々と書かれたというのが、以前の私の考えだったのですが、それは全面的に訂正で、アマチュアの2人に稽古を付けながら、その進歩と共に少しずつ新しい作品を書いていった、ということになります。もしも、音源や楽譜をお持ちの方がいらっしゃるのならば、私の推定順に従ってご覧に(お聞きに)なってみて下さい、ヴァイオリンの技法的な進歩に驚かれることと思います。また、演奏家も4人に限った訳では無いはずですので、その時その時によって適宜いろいろな人が加わったことは想像に難くありません。すなわち、弦楽4重奏曲以外の作品も作られていて全く不思議はないことになります。前述のように、たまたまホルン2が加わる機会があったので2曲の6声のディベルティメントが書かれたと考えられますし、ハイドンが必ずヴィオラを弾いていなければならない必然性は無いので、初期の弦楽3重奏曲やクラヴィア4重奏曲、実質的にはヴィオラ抜きという変な編成の交響曲と考えていい6曲のスケルツァンド、そして同じくヴィオラ抜きの管弦楽のためのメヌエット集等も、何か気になる作品と言えます。


ハイドン作とされる作品3の弦楽4重奏曲の考察

 

さて、作品3について語る順となりました。ハイドンの作品番号は実はあてにならないのが定説で、この作品3がパリのベユー社より初めて出版された時の番号は作品26となっていました。ですが、通常使われている番号では、作品1から3まではすべて6曲ずつの弦楽4重奏曲ですので、つまり作品3は弦楽4重奏曲の13番より18番までの6曲になります。中では、第17番通称「セレナード」がかなり有名と思います。ところがこの6曲は近ごろは、コンサートでもCDでもめったに聴けなくなりました。探せばあるのでしょうが、ハイドン弦楽4重奏曲全集のようなタイプのものでは、まずめったにお目にかかれません。ちなみにちょっと探してみたのですが、「セレナード」以外は探した範囲では見つかりませんでした。しかしそれも道理で、この6曲は偽作であるということが確認された作品だからです。

この作品3が、ハイドンのカタログに紛れ込んだ経緯は、1801年にプレイエルによって刊行された「作曲者によって承認され、出版順に整理された弦楽4重奏曲集」に、入ってしまったのがそもそもの発端になります。1801年という年は、ハイドンが晩年の大傑作オラトリオ「四季」を完成させ、しかしそれに精根を使い果たし、老齢による衰弱も加わり、作曲活動を続けること自体が困難な状態に陥った、まさにその年であるわけです。プレイエルはかつてのハイドンの弟子でもあり、誠実な信頼できる人物でもあったので、ハイドンは細かい仕事に干渉することをせずに、かなり任せきってしまったように思われます。そのハイドンのプレイエルに対する信頼は、その後ハイドン自身が、その当時の弟子エルスラーの協力のもとに自作曲の目録を製作した際、弦楽4重奏曲はプレイエル版のものを、そのまま書き移させた事実からも窺い知ることが出来ます。さらに、その目録を研究家ホーボーケン(ハイドンの全作品を整理しジャンル別に番号をつけました)がそのまま採用してしまったというおまけも付きます。

もっとも、ホーボーケンの番号付けには、ハイドン作として伝わる作品は、真偽を問わず総括する、という一貫した姿勢を保っていますので、結果として偽作と判明した作品が、紛れ込む事も無理は無いとも言う事もできます。しかし、このプレイエル版における番号付けには他にも欠陥があります。それは、「十字架上のキリストの七語」という管弦楽作品の弦楽4重奏編曲版に50〜56という7曲分の番号を付けてしまっているという事です。この曲は編曲ですので、本来ならば番外にするのが妥当ですし、もしも番号を与えるとしても1曲分として考える方がいいと思われますし、仮に百歩譲って1曲ごとに番号を付けるとしても、実は7曲の他に、序曲と終曲があり、9曲と数えるべき(第7曲と終曲は連続して演奏されるので、8曲という考えも成立します)ということになります。老齢のハイドンはともかくとしまして、当事者プレイエル、単に番号を継承したエルスラー、そしてホーボーケンという、そうそうたるメンバーが揃っていて、誰もこの事に疑念をはさんでいないのが、大変奇怪な出来事と言わざるを得ません。

ともかく、この作品3の6曲の弦楽4重奏曲はこういう経緯でハイドンの作品とされてしまった訳ですが、最初に出版したベユー社が、この曲集の他にも明らかな偽作をハイドン作として出版した前科があるという、かなりいかがわしい出版社である事が判明していますし、他にもいろいろと状況証拠があり、かなり以前からこの作品3の真偽性を疑問視する研究家がいながら、なかなか決定的な証拠があがらない時期が長く続いていました。やっと1964年に、ベユー版の原版を探し出し、調べた結果、作品3の1と2の2曲に作曲者名を消した跡が見つかり、それが決定的な証拠と認められ、偽作という判定が下されたということです。この報告だけでは後半の4曲が偽作なのかどうかが疑問ということになりそうですが、後半の4曲については、原版の製作者が異なっている事が確認されていますので、早急な結論は出せないということになります。

消された作曲者名はホフシュテッターと判読されました。その人物はロマン・ホフシュテッターという僧職の作曲家で(職業的作曲家と呼ぶべきかどうかが難しいと思います。完全なアマチュアとは言えないように思いますが、かと言って職業作曲家と考えるかどうかも疑問です)、1777年に作品1の弦楽4重奏曲を発表しているという記録があるそうです。1777年はベユー社からハイドンの作品3(実際は作品26)が発表されたその年にもあたります。そのホフシュテッターの作品1の楽譜を見比べてみればいろいろわかるはずなのですが、私の調べのつく範囲ではそのことに言及した資料が見つかりません。どうやら、その作品1の資料は(少なくともはっきりと確認出来る形では)現存していないということなのでしょう。

 

さて、ここまで書きましたことは書物その他で調べられる事実を並べたに過ぎません。ところで、プレイエルがハイドン作と誤認したその作品がどんなものかということも、けっこう興味深いことですよね。前述のようにCDを探すのは大変なのですが、幸いなことにオイレンブルグ版のポケットスコアが容易に入手出来ますので、興味本位に手に入れて、調べてみました。

全体的な印象としましては、ハイドンの作といってもおかしくないくらいハイドンの手法を取りいれた作品です。1770年代後半のハイドンのさまざまな実験精神が、盛りだくさんに使われています。反面その時代のハイドンの作品に比べれば、はっきりと内容の密度が劣っているということも断言できます。だから偽物だという結論になれば簡単なのですが、その時よりも以前、つまり最初期の作風から中期の作風に転換する時期の意欲的な実験作にも見えてしまうのが曲者で、その点が長い間疑問視されながら、なかなか偽作とは断定されなかった理由でしょう。

先にも触れました、前半の2曲と後半の4曲が同一人物の作品であるかどうか、という点ですが、他のハイドンの作品には見られないある種の共通の癖が確認できますので、同一人物の近い時期の作品であることは確かだと考えています。しかし、これもハイドン作を否定する証拠とはなりません。そういう癖が年と共に変化する可能性は十分考えられるからです。

 

さて・・・・・
曲の詳細についてですが、

6曲全体的に言えることは、どうも6曲一まとめとして最初から計画された曲集には見えないことがあります。外面的な構成やスタイルがまちまちで、いろいろなスタイルのハイドンが顔を出します。ハイドン本人の作とすれば、いろいろなアイデアを考えながら書いていった、という感じに見えますが、その見方よりもむしろ、別人がハイドンの曲を勉強していく過程において、学び取った手法を用いながら1曲ずつ書いていった、と考える方が自然に思えます。

おそらく少なくとも2〜3年の期間に少しずつ書き溜めたものをまとめて発表したという性格の作品集でしょう。中には完成作とは思えない形の曲も含まれています。

他に全体的に感じる点をいくつか書き出してみましょう。
この曲集は良くも悪くもメロディにポイントがあると感じます。メロディ自体は、どちらかというと月並みで、それほど魅力を備えているとは思えません。しかし、そのメロディを発展させていく過程に独特の味を持っていて、それが最大の長所と感じられます。かたや、メロディ同士を対位法的に重ねあわせ、展開させることにはほとんど意を用いていませんし、メロディが一段落した後の処理にぎこちなさがあり、これは大きな欠点といえます。

曲が一段落する部分で(提示部の結尾部など)、かなり執拗な繰り返しを含めだらだらと音楽が引き伸ばされているのが、全曲に見られる大きな特徴で、このやり方は、ハイドンの他の作品に良く見られるスパッと小気味良く切り上げてしまう、快刀乱麻を断つがごとく切れ味の鋭い書法とは、相当に異質な感覚をおこさせます。この点が、偽作と確定する以前にも時として真偽が議論されていたポイントと思われます。

ハイドンの他の作品には見られない和声法上の誤りも数箇所に見出したのですが、オイレンブルグ版自体、明らかな印刷ミス(音の間違えや臨時記号の間違えなど)が散見するため、本当に作曲者の誤りなのかどうかが判然としないのが難点です。信頼できる原典版の存在しない曲はこういう点が困ります。

もう一つ大きな問題は、少なくともチェロの下にコントラバスが加わっていなければ書法上誤りとなるケースが散見し、本来、弦楽4重奏曲として書かれた曲ではないと考えられる曲が多く見られます。

 

それでは一曲ごとに気が付いた点を書いてみます。

まず第1番ホ長調ですが、これはけっこうまとまりが良いと思います。旋律が魅力的とは言えないのと、主題の展開がほとんど見られないのが決定的な欠点でしょう。3楽章、4楽章が、第一ヴァイオリンだけが旋律を奏で、実質的にはごく単純な2部形式や3部形式で書かれているのが、目を引きます。こういう音楽は主題の展開とは、ほとんど無縁の世界です。1楽章が、バロック風の味を持っていたり、2楽章にメヌエットが置かれている点など、構成上の工夫は見られます。

第2番ハ長調は3楽章構成の曲で、1楽章が変奏曲になっていて、けっこう旋律的には楽しめます。変奏の手法はバス・オスティナートを用いている点が目を引きますが、作曲技法上はそれほど見るべきものを感じません。2楽章はごく普通のメヌエット。3楽章は、初めに通常のソナタ形式(リピートは省略)の音楽が登場します。それを一通り演奏した後に、リピート付きの3部形式になっている全く異なったメロディが登場し、さらに最初のソナタ形式の部分にダ・カーポするという全くあきれた構成です。作曲者は新機軸のつもりかも知れませんが、ダ・カーポ後がしつこく感じられて聴くに耐えなく、全体的には冗長以外の何者でもないと思います。

第3番ト長調は、曲調的に言って、弦楽4重奏曲であるはずが無く、小編成の弦楽オーケストラ用に書かれた作品であることは間違いないでしょう。そうでなければ書法上の問題点が多すぎます。また、ハイドンには考えられない連続5度が頻繁に登場するのが目に付きます。ただ、そのことを抜きにして考えれば、けっこうまとまりも良く、聴ける作品と思います。2楽章のラルゴと3楽章のメヌエットは、この曲集の中では出色の出来と思います。

第4番変ロ長調は、2楽章構成の作品ですが、これは問題作で、おそらく完成作ではないでしょう。いや、曲数を合わせるために(6曲まとめて出版するのが当時の習慣でした)適当な習作を引っ張り出して繋ぎあわせた、でっち上げというのが正解かも知れません。この曲も弦楽オケ用の作品(もしかしたらもともと管も含めたオーケストラ曲として構想された可能性もあります)と考えられます。第1楽章はかなり面白く感じますが、ある種のしつこさと、曲の展開の不自然さは拭いようもありません。ハイドンの他の作品の引用があるのがご愛嬌です。第2楽章は、アダージョの序奏のフレーズが、展開部の始めに再現する構成がいやに目立っていますが、主部のメロディがだらだらと続く印象は拭えません。

第5番ヘ長調通称「セレナード」は、実はコントラバスを加えた弦楽5重奏のための作品ではないかと思います。第2楽章のアンダンテのセレナードがけっこう旋律的魅力を持っていますし、他の3つの楽章が比較的コンパクトに出来ているので、ともすると欠点と感じやすい執拗さが目立たなく、全体的には、聴きやすい作品といえるでしょう。やはり、他の3つの楽章の旋律は月並みです。

第6番イ長調は、6曲の中では一番スケールの大きな曲で、他の5曲には見られないような、主題の展開や転調等が見られ、作曲技法上は一番優れた作品と断じて良いでしょう。ただ、新しいフレーズが登場する時に唐突感があり、多少なりとも戸惑いを覚えるのが、大きな欠点といえるでしょう。第2楽章のアダージョはヴァイオリン協奏曲のような書法を用いていて、けっこう聴き応えがあります。第3楽章のメヌエットが素晴らしい。この楽章はハイドンの真作と比べても全く遜色は感じられません。