目 次

あんずのお話(1)序文
あんずのお話(2)あんずのお勉強
あんずのお話(3)お勉強の続き
あんずのお話(4)アマチュアの猛者?
あんずのお話(5)あるジャズマンのお話
あんずのお話(6)英会話?
あんずのお話(7)18歳では遅い?
あんずのお話(8)基礎的実力
あんずのお話(9)タイミング
あんずのお話(10)「呼吸」
あんずのお話(11)ちょっと閑話休題
あんずのお話(12)「間」
あんずのお話(13)「呼吸」と「間」
あんずのお話(14)3連符
あんずのお話(15)続・3連符
あんずのお話(16)聞こえ方
あんずのお話(17)ティンパニ
あんずのお話(18)ティンパニの続き
あんずのお話(19)伴奏者
あんずのお話(20)伴奏者の続き
あんずのお話(21)スタッカート





あんずのお話(1)序文

「あんず」とはなんでしょうか?。
これはただEnsemble(Ens.)を、勝手にひらがな読みしてしまった言葉で、無責任かつ安易かつ自己満足的な略語です。たしか「アンサンブルのお話」という発言があったように記憶していますので、それとは区別できるタイトルを考えているうちに、ふと思いついただけです。
以前、他のチェーンで、「ピアニストのアンサンブルテクニックはごく一部の人を除けば非常にレベルが低い」というような発言をいたしました。その時はハードリスナーのような人々に反響があり、現役のピアニストには見事に無視されました。で、その後はそのままになっていたのですが、考えてみれば無視するということは、[反論出来なかった]→[暗に認めた]ということになってしまいます。少なくとも、例え反論したいと思ったご当人がたいへんな実力者だったとしましても、ご当人以外のレベルについては低いと認めざるをえなかった、ということと理解出来ます。これは是非、何かの形でアフターフォローすべきではないかと考え、エッセー風に思うことを書いていく形を考えました。ということで、どこまで書ききれるか自分自身でも懐疑的ではありますが、不定期連載の一回目ということで、宜しくお願いします。
ところで、私がどのようなスタンスで物事を考え、発言しようとしているかを、ある程度明らかにしておく事も必要かと思います。しかし詳しく自己紹介というのも何かおかしいので、なるべく簡潔に要点だけですが、・・・。
肩書は、1に作曲家、2にピアニスト(ほとんど廃業寸前、リサイタルの経験はあるが・・・)、3に機械屋さん(シンセサイザー及び録音関係という意味)、その他、オーケストラ経験あり、ロックや、フュージョンのバンドの経験あり(この辺りはどちらかというとアマチュアレベルで、楽器は多数)。内実は、器用貧乏を絵に書いたような音楽万(よろず)屋さんです。
ところでアンサンブルテクニックとはどんなものでしょうか?。他人と音楽を合わせる時に必要なテクニックと書いてしまえばそれまでのようですが・・・。いやいや、ここで問題にしたいのはその事ではなく、はたしてアンサンブルテクニックは演奏テクニックの一部なのか、別のものなのか、という点です。これが、考えてみるとなかなか謎なのです。
通常は演奏テクニックの一部としてアンサンブルテクニックがあると考えたいのですが、これが別個のものとして存在しうる例に遭遇することがまま有ります。また、よくテクニックと音楽性を相対峙するものとして扱うことがありますが、(例えば、日本人のコンクール評(海外のコンクールが多い)でよく、「テクニックは抜群だが、音楽性がもう一つである」というような事が書かれる事があるのですが)、アンサンブルテクニックのことについて考えてみますと、この場合のテクニックよりも、むしろ音楽性の方により近い位置にあるように思えます。
この辺の事につきましては、私としましても結論を出しにくく、むしろ多くの方のご意見をうかがいたく思っています。
ということで、次回に続きます・・・。


あんずのお話(2)あんずのお勉強

前回は、「演奏テクニック」「アンサンブルテクニック」「音楽性」の3つを、共通するもののごとく、又、別のもののごとく書きました。本来は、それぞれが別のものであるはずはなく、お互いに密接に関係しているに違いない、と考えるべきでしょう。しかしそれぞれどうやって勉強していくか、という話になりますと、3者3様の様相になってしまいます。
まず「演奏テクニック」を身につけるのは、圧倒的に個人練習に負うこととなるでしょう。勿論、独学ではどう転んでしまうかわかりませんので、それを適切な形でリードしていく優れた先生の存在は不可欠にはなります(最近はビデオ等もあなどれませんが)。しかし、あくまで先生から学んでくるのは、「練習方法」であって、それを身につけられるかどうかは、生徒側の個人練習の問題といえます。
それでは、その先生の存在意義は「練習方法」の伝授だけなのかといいますと、当然そんなことは無いわけで、レッスンのより多くの時間は、「音楽性」を身につけることに費やされるはずです(実際、「テクニック」の問題は自分の高弟に任せて、本人は「音楽」についてのみ見るという分業制を取っている大先生もいます)。とにかく「音楽性」の勉強は、優れた先生につくことを第一と考えるべきで、他の方法は補助的に役に立っても、それだけではなかなかうまくいかないと考えるべきでしょう(他人の演奏を聞いて、そのまま勉強になってしまうというレベルに達してしまえばその限りではないのですが・・・)。
ところで、本題の「アンサンブルテクニック」はどこで勉強するのでしょうか?これは実際にアンサンブルを経験することが第一で、どんなに書物で勉強しても先生に話を聞いても、実際にやっていなければほとんど「机上の空論」です。「なんだ、当たり前じゃないか。」と言われそうですね。まあ、当たり前の事を当たり前と認めることも、1つの段階ということで、ご容赦願います。
さて、そう認めてしまうと、いろいろな問題が整理されてきます。先ず多くの人が指摘することは、音大のピアノ科の場合、アンサンブルの経験が皆無でも入試に受かる可能性があるということです。これが他の楽器の場合は、少なくとも入試で伴奏者がついたり、そうでなくともアンサンブルの経験が無いなどはおよそ考えられないでしょう。また、それまでの間に、アンサンブルテクニックに大きな問題を抱えている受験生はふるいにかけられてしまうということでもあります。
これは、又聞きの話なのですが、時々(音大の受験で)受験生が「伴奏者のテンポが練習と違っていた」、といって半べそで帰ってくるケースがあるそうです。その時の話では、そのようなふざけた受験生は、「今後一切めんどうは見ない」と三行半だそうです。厳しいようですが、自分のテンポを伴奏者に感じさせるという、アンサンブルテクニックの初歩の初歩が出来ないのでは、いたしかたありません。その先生にとっては、「そんな常識的な事もわからないようでは、今まで何を勉強していたのだ?」という気分なのでしょう。
ところで、ピアノ科の場合はそんなことは全く考えられません。アンサンブルの経験につきましても、ヤマハ等の教室の経験があれば良い方でしょう(この経験の有る無しは実は大差だと思うのですが、そのことにつきましては改めて書きたいと思っています)。しかもそのヤマハ等の教室で、「この子はものになりそうだ」となった場合、「そんなチーチーパッパはやめて、ちゃんとお勉強しましょうね。」ということで教室はやめさせて個人レッスンに切り換えてしまうことがあるそうです(これは、そういう経験をした本人から直接聞いた話です)。
もう一つ、ある管楽器の受験生が試験の予行演習のような形で、発表会に出演したのを偶然聞いたことがあります(その教室の先生が友人でしたので)。その時、ピアニストには、趣味でピアノを弾いているようなあまり上手くない友達を連れてきていました。そのピアニストには悪かったのですが、本人に「ピアノ科の受験生なんか友達にいないの?」と、聞いてみました。その時の答えは「いるのですが頼めなくて・・・」ということでした。どうも「そんなことやってられない」と断られたらしいのです。決して受験直前の時期ではなかったのですが。
ここにあげた例が、ごくごく少数の例であってほしいと願いたいのは私だけでしょうか・・・・。
長くなりますので、次回に続きます。


あんずのお話(3)お勉強の続き

さて、先ず前回の発言の補足から・・・・
>「音楽性」の勉強は、優れた先生につくことを第一と考えるべきで、・・・・
と、確かに書きました。これは日本での事情ですね。要は、自分よりも優れた音楽性を持つ人の演奏なり、話を身近に(一挙手一投足のわかる位置で)見聞きすることが重要なのですが、欧米ではその人に師事する以外にも、いろいろ機会がありますね。ちょっとうっかりしていました。
20人くらいの規模の会場でのコンサートなんか(つまりホームコンサートに有名な演奏家に来てもらって友人知人を招待するような感じのコンサート)、ものすごい勉強になります。「音楽性」を語ろうとしますと、聴衆と演奏家の、表面に出てこないやりとり(一種の真剣勝負)が、かなり重要なウェートを占めてくるのですが、それを目の前で観察できる機会に恵まれれば、へんなレッスンに半年通うよりもよほど効果的ですもの。初回に書きました「演奏テクニックは上手いが、音楽性が足りない」という評も、結局は、そこに聴衆がいることを忘れられてしまっていると、聴衆側が疎外感を持ってしまう(たとえ演奏者当人は忘れているつもりではなくとも)ことの、裏返しですね。
さて、アンサンブルの話に戻りますが、前述の通り音大に入った時点でのピアノ科の学生の平均的アンサンブルテクニックは非常に低いといえます(繰り返しますがとても高いレベルを持った人も少ないながらいます→念のため)。そして他の楽器の人達はといいますと、ピアノ程低い訳ではありませんが、決して高いとも言えません(これも同様とても高い人もいます)。しかしいくらなんでもバカではありませんから、ずっと以前からそういう勉強が必要なことを気がついている人も多いでしょうし、よほど鈍い人でも、入学して何ヵ月も気がつかないでいるいうことはないと思います。当然、気のあった人どうし集まって、「アンサンブルのお勉強しましょうよ」「そうしましょう」ということになります。丁度よいことにアンサンブルのレッスンも始まりますし 。めでたしめでたし・・・・。
ここで、2つ程疑問点があるのです。その一つは、こういう感じで集まった場合、どこかのアマチュアオーケストラのメンバー同士が、「室内楽って面白いよね」「やろうやろう」と言って集まったのと、そうレベル的に変わっていない、という点です。集まった時点では、アンサンブルテクニックはアマチュアの方が上かも知れません。練習の内容の濃さでは音大生が上だとおっしゃるでしょう。しかし、アマチュアにはアマチュア独特の物量作戦があります。なにせ好きで好きでたまらなくて集まった人達です。時間さえ許されれば、週に7日でも合わせたいですし(時間のコントロールがきく大学生は本当にやってしまうかも知れません)、一日10時間の練習(つまりこれは合宿ですね)等も平気でやってしまいます。音大生がアンサンブルの勉強で合宿した話は、私は聞いたことがありません(「やりましたと」いう方がいらっしゃいましたら名乗りをあげて下さい。又、カルテットを結成しようと決心して合宿に入った例は聞いていますが、これはただお勉強しましょうという形とは区別して考えています)。
あと、アンサンブルのレッスンで偉い先生に見てもらうので、絶対に音大生が上だとおっしゃる方もいらっしゃると思いますが、これも別の方法で、同等の効果のあげられる方法があります。それは、経験豊富な熟練者にメンバーに加わってもらうという方法です。アマチュアにもとんでもない熟練者・猛者がけっこういるものです。
さて、以上あげた点につきましては、音大生側がそのことを自覚し、謙虚に受けとめ、精進すればそれでほとんど解決してしまう問題です。大問題はもう一つの点です。結論から書きます。音大に入ってからアンサンブルの勉強をするその18歳という年齢が、年齢的に遅すぎはしませんか?という点です。
長いので次回に続く(こればっかり・・・)



あんずのお話(4)アマチュアの猛者?

少し話題が脇道へ行きます(本当はそのままストレートに続きを書くつもりでいたのですが、気が変わりました)。
前回登場(?)いたしました、アマチュアの熟練者・猛者とはどういう人達なのでしょうか?。ここで、どこのアマオケにも居そうな、平均的な猛者について考えてみたいと思います。そういう場合、多少の違いには目をつぶって、人物像を作ってしまうのがわかり易い(?)。
まずは、ご多分に洩れず最初のキャリアは、ヤマハその他の幼児教室(いわゆるリトミックですね)から始まります。ここでなかなか才能を発揮し、ほめられたりして、本人もその気になってしまいます(なお、この頃の才能というのは、多くの場合、積極的な性格であるとか、物覚えが良いとか、少々小器用であるとかで、音楽そのものの才能とは別に考えるべきなのですが)。ここで、一人で黙々と練習していくことが好きな(又は嫌いではない)タイプの子は、音大受験のコースに乗っていくのですが、一人でやるのは大嫌いで、絶対に友達(仲間と)一緒でなければというタイプの子が必ずいるもので、これがアマチュア猛者の原型といえます。その後は、いち早くアンサンブルの面白さに目覚め、音楽教室では物足りなくなり、小学校のクラブ活動のオーケストラ、或いは地域の少年少女オーケストラに活動の場を移し、中学、高校、大学とオーケストラ(或いはブラスバンド)を続けていくことになります。その間に複数の楽器に手を染めたり練習の指揮者を任されたりという経験も積みますし、小学3〜4年の頃から、オーケストラのコンサートの本番を、年数回の割りで経験していきます。又、早い人は中学生の頃から、遅くとも高校卒業の頃までに、室内楽の面白さに目覚めていくことになります。当然、大学生活は、使える時間の約半分はオーケストラ、残りのほとんどは室内楽という、音楽三昧の4年間(?)。そうして又一人アマチュア猛者のでき上がりということになります。
ここまでお話すれば、アマチュアといえどもなかなか侮りがたいアンサンブルの経験の持ち主ということはおわかりいただけるでしょう。
先に、アンサンブルテクニックを身につけるためには、実際にアンサンブルを経験しなくてはならないと書きました。ここでもう少しわかりやすいように、このようなアマチュアの猛者の、実際のアンサンブル経験を時間数で計算してみましょう。最初の幼児教室では週1時間で年45週。学校のクラブでは週3日2時間ずつ・・・・・等と考えていきますと、高校卒の時点で4〜5千時間、大学の時は1年間に1千時間も不可能ではありませんので、合計8千〜1万時間くらいにはなります(ただしこの数字は小学3年より高校までの10年間少年少女オーケストラと学校のクラブの両方に所属していると考え、又受験によって削られる時間については考慮していません)。
さて翻って、音大生がこういうアマチュアの猛者のレベルに追いつき追い越そうと考えたとしましょう。いやしくもプロのタマゴですから、アマチュアごとき4時間分を1時間ですませる事は苦でないとしましょう。で、8千時間の4分の1、2千時間が目標です。週5時間は必ず練習したとして(アンサンブルの場合は1人ではできませんのでこのくらいの数字が丁度良いところでしょう)、年に約250時間、8年間で目標達成!!・・・・・・んっ?!、8年!!そうです、大学4年間、普通に一所懸命やっただけでは追いつけないレベルなのですね、これが・・・・・。
(注)現実はこんなに単純には割り切れないのは十分承知の上で書いています。 その辺につきましては、また触れたいと思っていますので、今回のところは ご容赦下さい。


あんずのお話(5)あるジャズマンのお話

今まで「アンサンブルテクニック」と「演奏テクニック」は、別々に習得することが可能であると書いてきました。そして音大のピアノ科の学生で、「アンサンブルテクニック」の勉強を忘れて(?)しまっているケースがあるとも書きました。ところで、「アンサンブルテクニック」だけを習得していて、「演奏テクニック」を忘れてしまっているケースはあるのでしょうか?。こちらはめったにお目にかかれませんが・・・・・・。
私の知り合いでジャズピアノを弾く人がいます(言い忘れるところでしたが、私はけっこうジャズ界に友人知人がおります)。その人はプロというわけではありません。ちゃんと別にお仕事をもっています(設計関係)。しかしアマというわけでもありません。クラブのような所で演奏しては、お小遣いをかせいでいました(もっともそのお金はだいたいその日の内に飲んでしまっていたようですが)。このおじさんが無類の教え魔で、人をつかまえては「ジャズとはこうやって弾くもんだよ。」等とうるさいことうるさいこと・・・・(私も随分つかまりました)。そして、言うことには・・・・・・。「この間も、『芸大で勉強しました』等と得意そうに来たやつがいて・・・」(私の知る範囲ではピアノ科でジャズをやる人はいませんので、おそらく作曲か楽理の人でしょう)「弾かせてみたら全くなっちゃいない!!。タイミングもなにもあったものじゃない。連中は頭でやろうとするからいけないんだ・・・」と、のたまうのたまう。
じゃ、ご本人の演奏がどうかというと、これが実に気持ちのいいタイミングで気持ちのいい音を弾く、という演奏。けっして派手ではないが、それの有る無しが調味料のはいった料理と、ただ焼いただけ(茹でただけ?)の料理程の違いがある、というタイプのピアニストなのです。
さて、それ程の実力者が、どれ程の「演奏テクニック」を持っているのかと、興味しんしんで観察していたのですが、とうとうそのおじさんが、珍しくも一人でさらっている所を偶然見かけてしまいました。その時の驚きを、ここのフォーラムの人々にわかってもらうにはどう書いたらいいでしょうか?。あれではとてもハノンの1番をまともには弾けないでしょう。ツェルニー30番なんか全然無理、バイエルだって50番くらいがもう危ない。つまりこれは「演奏テクニック」を全く度外視して「アンサンブルテクニック」だけを磨いてきた人だったのですね。
こんな人に「全くなっていない」と言われた芸大生(卒業生?)の立場はどうなるのでしょうか?。また、こういう人がのさばってしまうジャズ界もジャズ界なのですが、しかしこういうところに「アンサンブルテクニック」の謎を解く鍵がひそんでいるとも言えそうです。


あんずのお話(6)英会話?

アンサンブルのお勉強って、なんとなく英会話(独会話、仏会話等でも可)のお勉強と共通点がありませんか?
まず、英会話は英語のお勉強とは別に成り立つものです。英会話を出来なくても英語の読み書きは出来ますし。難しい専門用語や言い回し等何もわからなくても英会話は出来てしまいます。何せアメリカ(英国他)では、ほんの2〜3歳の子供が、立派に英会話をしています(当たり前か)。
日本では13歳(中一)から英語の勉強が(学校で)始まります。この年齢が早いか遅いかよく議論になります。英会話の勉強には遅い、英語の勉強には特に遅くはない(もっと遅くても可能)、これが私の勝手な結論です。しかし遅いといっても手遅れではありませんので、ここにいろいろな段階が生じます。ちょうど囲碁や将棋の段級位のように。あの人の英会話は5段クラスとか、初段くらいとか実際はあまり言いませんが、そんな感覚って確かにありませんか?。始めたのが遅かったから、どんなに努力しても3段がいいところ、だとか、幼少から始めて、才能にも恵まれ、名人間違いなしとか・・・・。
英会話の面白いところは、2言3言でお互いの実力がだいたいわかってしまうことで、しかもそれを聞いている人にも(たとえその人が英語を理解出来ない人でも)わかってしまうということです。
うーん、やっぱりアンサンブルと似ている。
よく、本人は素人の人が「あのアンサンブルは良くない」等と言うことがありますよね。「なにを、ど素人が」と思う人もいるかも知れませんが、実は演奏家のアンサンブルの実力が有るのか無いのか、見ている素人にもわかってしまうことなのですね(怖い・・・・)。
うーん、似ている・・・・・。



あんずのお話(7)18歳では遅い?

アンサンブルのお勉強は18歳からでは遅いかどうか、この話題を先送りにしていろいろ別な話をしてきました。私としましては、いきなり結論じみた事を書くよりも、みなさんが考える材料を少しずつ提示してみたつもりでもあります。すなわち、私自身が考えていく過程において集まってきた数多くの材料の内、際立った物を2〜3紹介したことになります。本当はまだまだ色々と面白い実例等もありますが、そのへんは、このシリーズ中にあらためて書く機会もあるかと思います。
ここまで、ずっとお付き合いいただいた方には、これからどういうことを書こうとしてるかご察しいただけると思います。私としましては、音大生になってから、すなわち18歳になってから「初めて」アンサンブルの勉強を始めるのでは、殆ど「手遅れ状態」であると考えています。しかし、実際には、18歳まで、ただの一度もアンサンブルの経験が無い、ということはあまりありませんので(少なくとも小さいころに連弾の練習などをやっているはずですので)、かろうじて最悪の事態は免れているケースがほとんどです。従って、18歳からでも十分間に合うと、勘違いしている人も多いと思います。
最悪の事態に至らなかったとしても、状況はかなり深刻であることには変わりありません。音大入学以後、大変苦労してアンサンブルの勉強を積んだ結果が、相対的に見てアマチュアの上程度ということも決して少なくありません。しかし多くの場合、アンサンブルテクニックとしては比較的楽な(相手の音楽性はあまり顧慮する必要がなく、自分の音楽だけで処理できる)コンチェルトの勉強のみで、良しとしてしまう傾向がありますし、とりあえずコンチェルトが十分弾ければ、その人のアンサンブルテクニックについて疑問をはさまない、というエチケット(?)も無いとはいえません。
このへんの部分まで一気に述べてしまいますと、かえって収拾がつかなくなってしまいますので、まずものの順序としまして、アンサンブルの勉強は何時ごろからどのくらいやれば良いのか、という点からお話したいと思います。
私は、本格的な勉強を始めるには、9〜10歳くらいが適当と考えています。もちろん、もっと以前より、ヤマハその他の幼児教室などで、お遊び的にやることはむしろ良いことですし、「本格的」とは、音楽的に内容の深い曲に取り組むという程度に考えていただいて、当人にとってはお遊びの延長でもいっこうにかまいません。要は、その年齢の頃までに、あまり内容の無いお遊びよりは、もう一歩踏み込んだ形で、「始めて」さえいれば十分ということです。やはり、理想としましては、5〜6歳の頃より、徐々にお遊びとして導入していき、だんだんと内容的に深化させて行く形が無理がなくて良いと思います。そのくらいの年齢の子で、たとえピアノのレッスンにあまり熱心でない子でも、連弾を嫌がる子はまず一人もいないと考えて良いでしょう。アンサンブルの面白さを徹底的にたたき込むには、むしろ、一番効果的な年代といえます(そう、アンサンブルは遅れて始めた人が、楽しめないで、苦しんで勉強したとしたら、そのこと自体が大変なハンディなのです)。
さて、こんなことは誰でも先刻承知、問題はどの程度のことをどのくらいやったら良いかという点でしょう。うーーーん、しかし、こう書かなくてはならないのが、少し悲しい。何故かといえば、本来は始めてしまえば(面白いことでもありますし)ずっと続けていけば、それでほとんど問題はないはずなのですが、ピアニストを目指す子にとっては、このほんの直ぐ後に「そんなことして遊んでないで、ちゃんと勉強しましょうね」と、いう時期が来てしまうのです。演奏テクニックをしっかり身につけるためにはローティーンの頃にどれだけ頑張れるかが勝負の大きなポイントになってしまうことに、よもや異論は無いと思います。「両方やればいいじゃないか」という意見があります。欧米では才能のある(或いは可能性のある)子は両方やっています。しかし日本の社会は、そういう子に対してけっして暖かくはないのです。「あの子はピアノばかり弾いてるのはまだいいとしても、学校の宿題もやらずに、友達と遊んで(注:アンサンブル)ばかりいる。」なんて言われたら、ほとんど落ちこぼれ扱いですよね。欧米では「あんた有名なピアニストになるんだってね、応援するから頑張りなさい。」なんて、知らないおばさんか誰かに言われたりすることがあるそうですよね(しょっちゅうあるのかどうかは知りませんよ)。
いずれにしましても、学校の勉強をおろそかにしないようにしながら、ピアニストを目指すということはそうとうなネックとなっています。また、「学校の勉強なんかどうでもいい」と、考えた場合、世間の冷たい視線を浴びながら(音楽の)勉強をしなければならないという、ハンディを背負い込むことになります。これはかなり、余分なエネルギーの消耗を強いられることになりますよね。その子の性格にもよるのですが、学校の勉強もしっかりやった方が(精神的に)ずっと楽、という事もあり得るでしょう。
長いので、またまた(肝心な話のところで)次回に続く。


あんずのお話(8)基礎的実力

前回の続きです。アンサンブルの勉強と演奏テクニックの習得と、両立が難しいとなった場合、どうしてもアンサンブルの方を後回しと考えてしまうのは人情でしょう。しかし、結果としてアンサンブルの勉強が「ほとんど手遅れ状態」に陥らないためには、出来るうちに、(演奏テクニックの習得に集中するために)少々休んでも大丈夫、というレベルまでやってしまうのが現実的な唯一の解決策です。それではどのくらいやったら良いのでしょうか?という問いに、時間数で答えにくいのが、少々苦しい・・・。
ヤマハその他の教室のグループレッスンで、あるいはピアノの連弾のレッスンで先生が「はーい皆さん、用意はいいですか、やりますよ!はい1・2・3・・・」という感じでやったのでは、あまり十分な効果が期待出来ません。だれか実力のありそうな子を指名して「はい、○○さんリーダーね。じゃみなさんでやって下さい」とやってしまう方が、100倍は効果的なのです。ただし、その場合、どんな事態になっても、迅速かつ適切にフォローしていくことが可能なだけの先生側の実力が要求されます。もしも十分な実力の無い先生がやろうとしたら全く目もあてられない収集不能状態にはまりこんでしまう危険が大です。
もしも、実力のある先生の元で、半年間、週1回1時間半ずつみっちりやれば、それだけで、じゅうぶんな基礎的な実力はついてしまうでしょう。現実にはなかなかそれだけの力を持った先生が見つからないのですが。
ここは、ひとつそういう基礎的な実力を測るバロメーターについてお話しておきましょう。これは演奏テクニックの話においても同じことなのですが、その人の実力を測るのに、一生懸命練習して、最高のコンディションを作って最高の演奏をするという力を比べるのが一般的な方法です(コンクール等はその最たるものです)。一方、練習も出来ず、コンディションも最悪、それでもこのくらいは演奏できるという実力の測り方もあるのです。私は、この力の高い人が、十分な基礎的な実力を備えた人であると考えています。具体的な例を考えていただければ、よりわかりやすいと思いますが、例えばみっちり練習してショパンのエチュードを弾きこなす人と、病気で2ヶ月入院して、退院直後にチェルニー30番なら完璧に弾ける人がいたとして、どちらが実力が上かなんて軽々しく判断は出来ませんよね(もっと言えば、このチェルニーの方の人の実力はかなり不気味ものがありますよね→実際はたいしたことないかも知れませんが)。
アンサンブルテクニックの方に、このことをあてはめてみますと、伴奏等のピンチヒッターをいつ頼まれても引き受けられる自信を持っているかどうか、という事でしょう。これをお読みのピアニスト(の卵)の方、「来週の演奏会の伴奏者が急病で出れないので、替わりにお願い出来ますか」と頼まれたとした場合、引き受ける自信がありますか?(これは私が実際に体験した話です)。
(追記)今回の発言を読み返してみますと、かなりわかりにくい所がありますが、直せるだけの文章力を持ち合わせていませんので、そのままアップします。どうも力不足で申し訳ありません。


あんずのお話(9)タイミング

「アンサンブルテクニックっていうと、要するにタイミングを合わせればいいんでしょう?。」と、いう人がいるかも知れません。一理あります。しかしそれだれで良いはずも無いのですが、その議論はひとまず置きます。その、タイミングを合わせるというのが、けっこう難関だったりしませんか?。今回はその辺の検証です。ただし、わかっている人にとっては全く当たり前の、つまらない話がしばらく続くことになるはずですが、これもものの順序ということで、ご容赦下さい。
「耳で合わせると遅れる」これはよく言われることですね、経験した人も多いのではないでしょうか、それじゃ次は・・・・・・これじゃ少々乱暴でしょうか?。通常は、耳で聞いて合わせようとすると、相手の音が聞こえてから反応しようとする傾向があり、若干ずつ(耳で聞く→神経から脳に伝わる→体を(手を)動かす命令を出す→神経を伝わって手が動く、までのごく僅かな時間の分だけ)遅れます。
しかし空間の距離について言う場合もあります。音の伝わる速さというのはけっこうゆっくりなもので、音速は秒速331.・・・(いかん!!小数点以下を忘れた)。私は秒速350メートルと345メートル、340メートル等、時に応じて便利な数字を使うことにしています。331.△△というのは、一気圧・気温0度の時の数字です(普通は気温0度の場所で演奏はしませんよね)。ちなみに気温30度で計算しますと、だいたい秒速350メートルになります(そんな暑い所でも演奏しないって?・・・、でも舞台上がやたら暑いことってありませんか?)。
それはともかく、このくらいの遅さになってしまいますと、何かの都合で演奏者どうしが10メートル以上離れた位置にいる場合、一方の音がもう一方に届くまで100分の3秒くらいの時間がかかってしまいます。100分の3秒ずれれば、多くの人は注意してさえいれば、ずれていることがわかります。つまり、聞いて合わせようとした場合、重大な支障が出てくるということになります。問題は10メートル以上離れることがあるかどうかですが・・・・。オーケストラでは、中程度のステージに乗ってしまえば、遠い演奏者同士は平気で10メートルは離れています(例えばホルンとハープ)。もし、そういう位置にいる2人の奏者が、デュエットで演奏するという曲があったら(曲の一部分でも)・・・・。他にも、演奏家が舞台上で移動する(歩く)ように指示された現代作品もあります。舞台袖、客席後方等とんでもない場所に演奏者をおくよう指定された(通常はバンダと呼んでいます)作品もけっこう多いですし(しかもルネッサンスの時代からその原型が存在しています)、舞台上に楽器が出てきてしまうオペラもあります(もちろんピットを離れて)。
さらに面白いのは、聞いて合わせると早くなる事がある、ということです。通常はその状態を「走る」と呼んでいます。これは、お互いが自分よりも相手が先に行ってしまったと思い、それに合わせようとしている状態で、アマチュアオーケストラ等ではまれに起こることがあります。通常は少人数では起こりませんが、子供の連弾等では2人で起こることもあります。いったん「走って」しまうと、ほとんどの場合、「そのままいってしまう」か「止まる」以外に収拾の方法が無かったりします。
「見て合わせたら・・・・・」、聞いてだめなら見て、ということになります。同じ楽器同志ならば、比較的合わせられます。しかし、違う楽器同志の場合、やはり微妙なずれが生じることがあります。楽器の発音原理の違いによって、演奏者がアクションをおこしてから、実際に音が鳴るまでのタイミングが、同じとは限りません。いや厳密に言えば、楽器が違えば必ず違うとも言えます。一般的に言って低音楽器の方が、「音が鳴る」までに時間がかかります。もっとも、慣れた低音楽器奏者は、早めにアクションをおこすことを実際にやっていますが、これは中以上のアンサンブルテクニックでしょう。
しかし、物事はそう単純ではありません。低音の場合、音が実際に耳に届いてからその音として認識するまでに少し時間がかかります。つまり、音を弾き始めてから楽器が鳴るまでの時間と、音が耳に届いてから、音として認識するまで時間の、2重にずれて(遅れて)いることになります。このずれは、音域によって変化しますがその変化の度合いが一様ではないのは、この2つの要素が絡み合っているからにほかなりません。
ここで思い出しましたが、「第九」の4楽章の途中、8分の6拍子のフーガに入る導入の部分が、ファゴット、コントラファゴット、大太鼓のピアニッシモの「1発」から始まっています。この4人の(ファゴットは2人)タイミングが、よっぽど気心の知れた間柄で無いかぎり、練習の段階では必ずずれてしまいます(目撃された方も多いことでしょう)。とくにコントラファゴットの奏者などは、よく見ていると、実際に音の出るかなり前のタイミングから息を送っていて、何とか合わせようと涙ぐましい努力をしているのがわかります。これは「低音」であるから故の「難しさ」が如実に現れている例と言えます。たいていの場合、本番では「ぴったり」合ってしまうのには恐れ入るばかりです。
「見ればいい」という単純な話ではいけないとしたら、どうなるでしょうか?
次回に続きます。



あんずのお話(10)「呼吸」

まずは前回の補足からですが・・・・、前回の文章を見せた人から、「なんか音を聞くなと言ってるみたいだ」との指摘がありました。改めて読み返してみますと、なるほどごもっとも。聞いてはいけない等と言うつもりではなく、「聞くのはまず常識」ということを踏まえて書いたつもりだったのですが、言葉が足りなかったと反省しています。
それと、前回は「それではどうしたら良いのでしょうか・・・」等と思わせぶりな書き方にしておいたのですが、実際は多くの人は、特別に意識することもなく合わせています。つまり内容的にはアンサンブルを実際にやっていれば、自然に身に付いてしまうことでしかありません。しかし、それをただ勘を頼りにやってしまう場合と、一応でも理解しておく場合では、多少の違いがあるかも知れません。実際、10メートル以上離れた位置で合わせることになって、はたと困惑しているケースに出会ったことが2〜3度あります(しかしこれとてもリハーサルの初期の段階の事で、本番が散々だったというケースはまだ見たことがありません)。
とにかく、やはり目で見て合わせる。そして、それが本当に合っているかどうかをしっかり確認する(耳で)という2段構えでやれば、だいたいにおいて問題なく処理が可能です。
1つもっと良い方法があるにはあります。それは相手の目を見るというやり方です。その楽器の音の出るタイミングはその当人が一番わかっているはずですので、目で正確なタイミングを伝えることが可能です。ただ舞台上で演奏家同志が見つめ合っているのが、妙に見える場合があるのが問題ですし、それができない位置関係になってしまうこともありますし(歌手の伴奏者なんか歌手がたまたま振り返らない限りは絶対に出来ませんし・・・笑)、相手が美人だったりして、ふと目が合った瞬間に、集中力が別な意味で殺がれてしまったりして・・・(ナニを書いてるんだ!!)
もう一つ、呼吸を合わせるということがあります。アンサンブルも呼吸が合わせられるようになってきますと、その面白さに対する認識が大分変わってくるもののようです。指揮者が大きくブレスをして、一瞬の「間」の後、スッと音が溢れてきて、何ともいえない快感を得るという経験をしている人もたくさんいらっしゃるではないでしょうか?。実はこの「間」がとても重要な事なのです。一つは、その「間」が無ければうまく演奏が出来ないタイプの楽器もあるということです。息を吸った後、大急ぎで音を出すためのフォーム(体の)を整えて、その後に音を出すという手順の必要な楽器があります。オーボエが代表者だと思いますが、忘れてはならないのが歌手です。歌手も、一流であればあるほど。この「間」が必要な歌い方になっています。そういう歌手が歌っている時に、後ろからながめるという機会はあまり多くはないのですが、ブレスをした直後の腰を中心とした(筋肉の)動きはなかなか見事なものがあります。
しかし、「間」の大切な点は、その音楽を共有する人々に大きな心理的な影響をもたらすということにあります。この心理的な影響を重ねる事によって、名演奏が生まれるといっても過言ではありません。まあ、このお話は今の段階では内容が広がり過ぎていますので、別の項で改めてということにさせて下さい。
アンサンブルで呼吸をあわせようとするのならば、この「間」を理解し、習得することが、唯一最大のポイントといえるでしょう。これは本来呼吸とは関係なく見える楽器(バイオリン・ピアノ・・・)、そしてそういう楽器のみのアンサンブルでも例外ではありません。
さて、アンサンブルの話からは少々はずれます。呼吸は、歌手と吹奏楽器の奏者にとりましては、いやでも向き合わなければならない現実問題ですが、やはり上手下手がかなりあります。概してポピュラー系の歌手は、その「間」をとらない歌い方のほうが大多数ですし(「間」をとる必然性は歌い方自体には無いですし、ほとんどリズムボックスと大差ない「音楽性」にもありません)、管楽器奏者で、「もう少しで名人の域に達するのに(アマでもプロでも)」という所で、呼吸がネックになってしまっているケースに、少なからず出会います。そして、バイオリンやピアノの奏者でも、やはり、呼吸の上手下手があります。
概して、弦楽器の奏者は呼吸が上手い人が多い、というのが私の素直な感想です。もしかしたら管楽器奏者の平均よりも弦楽器奏者の平均の方が上かも知れません。大抵のバイオリニストは、難しいフレーズを「息を吐きながら」すっと通過してしまいます。この「吐きながら」が重要なポイントで、うっかり「吸いながら」になってしまいますと、まず確実にしくじります。これは、何か手頃な楽器で(ピアノ等)実験していただければ、容易に納得してもらえることだと思っています。同じフレーズを「吐きながら」と「吸いながら」で弾き比べてみて下さい。「吸いながら」の方がはるかに難しく感じるはずです。そして感覚の鋭い人は、「沢山吸って吐く」場合と「少し吸って吐く」場合、「吐き始め」と「吐き終わり」ではかなり違うこともわかるはずです。
ピアニストの場合は、「そんなの当たり前だ」という人と、全く無頓着な(気がつかない?)人とにはっきり分かれる傾向があるように思います。ピアノという楽器が、そのへんがいいかげんでもけっこう弾けてしまう、というある種の「甘さ」を備えた楽器である、という証明になってしまったりします。
こういう意味での「呼吸」につきましては、呼吸に言及する事の多い種類のスポーツが(むしろ武道というべきかも知れません)参考になります(柔剣道・空手・合気道・射撃・弓道・重量挙他)。どの種目でも、どういうタイミングで息を吸って、どういうタイミングで息を吐いて技を出すか、ということがかなり細かく指定(言葉として適切かどうかは疑問なのですが)されています。太極拳やヨガ(スポーツと呼ぶかどうかは?)なんていったら、ほとんど呼吸法そのものという趣きさえあります。そうそうエアロビクスなんていう変なのもありました。他の種目が全て、持てる力をいかにして集中させようかということが眼目ですのに、エアロビクスは「持てる力」そのものを根こそぎ高めてしまおうという、とんでもない(安易?新発想?画期的?斬新?アメリカ人的?なんとでも言える)代物なのです。そういう種類の本を(その気でみれば沢山ある)、楽器の呼吸の勉強として読んでみるのも一興かと思います。
(追記)今回ほど文章力の無さを痛感したことはありませんでした。自分で読んでもわかりにくい所があるのですが、直す力がないので勘弁してください。ひたすら、読む人の読解力に期待しています。



あんずのお話(11)ちょっと閑話休題

>「あんず」とはなんでしょうか?。
>これはただEnsemble(Ens.)を、勝手にひらがな読みしてしまった言葉で、
>無責任かつ安易かつ自己満足的な略語です。(再掲)
10回突破記念でもないですが、そろそろ「あんずってなんですか」って質問が出ないとも限らないので・・・・・・(勝手に独り決めするな!!!)
ある方より、邦楽の「呼吸」に触れてほしいとコメントいただきました。その時は、「善処いたします」みたいな強がりを書いてしまいました。
しかし、翻って考えますに、今までお話してきました事は、自分自身の体験がベースになっていまして、それに友人知人その他、書物等から得た「体験談」を加味し、まとめたものです。従いまして「実がある」と褒められることもあり、「独りよがりで偏っている」と非難されることもあるわけですが、出来る限りいろいろなデータを駆使して、「独りよがり」に陥らない努力はしています。
ところが、邦楽につきましては自分自身、アンサンブルを語るには致命的な欠陥があります。それは楽器を持ってアンサンブルに参加した経験が無いという点です。変な書き方に思われそうですが、アンサンブルでなければ、箏・尺八・三線・篠笛・笙・小鼓を練習したことがありますし、楽器を持っていなければアンサンブルをしたこともあります(つまり指揮者を務めたということです)。そうそう、洋楽器を携えて、邦楽アンサンブルに参加したこともありました(現代邦楽には色々な作品があるのです)。これだけ経験があれば何か書けそうでもあるのですが、やはり邦楽器でアンサンブルの経験がなければデータ不足も甚だしいと感じています。そしてもうひとつ、それを補う話の聞けるだけの力を持った友人知人が極端に少ないということです。もっとも、一人だけ大変な大先生の知り合いがいるにはいるのですが、さすがに大先生過ぎて恐れ多くてこんな話を持ちかけられないでいます(うーん・・、「人間国宝」の先生にこんな話持ちかけられるほど厚顔にはなれない・・・・・)。これは「強がり」はやめて、誰か詳しい人に下駄を預けてしまった方が・・・・等と弱気に考えています。もちろんデータを集める努力はするつもりですが。
ついでに、その指揮をした時のこぼれ話を一つ・・。最初のリハーサルの時だったはずですが、ご存じの通り、邦楽器の人は普段、指揮者に合わせるという事はほとんど皆無に近い状態です。その時のメンバーも、実力的には相当な人達が並んでいたはずなのですが、いざ棒を振りはじめますと、棒が下降運動を始めた途端に泡を食ったように音が出てしまいます。「合いませんね」と言ってもう一度やると、また同じことが起こってしまいます。これには困りました、こちらは棒が一番下に停止した時点で音が出てほしい訳です。半拍遅れて音を出すという、(プロの)オケのやり方は承知しているつもりなのですが、この場合は半拍前に音が出てしまうことになります。しかも振り始めの一発目で必ずおこり、後は何事もなくちゃんと進んでしまいます。これはどう考えたら良いのでしょうか、休憩の時に指揮に合わせる経験の豊富な、顔見知りの人(その人もそのコンサートではゲストとして参加していました)に相談してみました。その時の話が実に珍妙。「ああ、彼らはピアノの本や学校の教科書に良く出てくる\/\/・・・(イチト、ニィト・・・)の記号を知っていて、それが指揮棒の動きだと思ってるんでしょう。」で一件落着、後で大笑いという訳です。まったくコロンブスの卵というか目鱗ものですよ。
もちろん休憩後邦楽器の人を全員集めて(洋楽器も入った曲でした)、「はい1・2・3・4・・・」という練習をやりました、トサ。


あんずのお話(12)「間」

前回(正確には前々回)、主に楽器の構造上、或いは発声法上、必要不可欠となる意味での呼吸につきまして述べました。これが、理解でき、楽器それぞれの性格と音高の変化による違いを理解すれば、どんな相手(楽器)ともとりあえずタイミングを合わせることは可能となります。それが出来るようになれば、入門編は修了ということになるでしょう。そうです、これでやっと初級編に入る段階になるわけです。繰り返すようですが、多くの人はこんなことはあまり理屈としてわかっていなくても、感覚的に処理して十分に出来てしまっています。それをわざわざ、くどくどとお話しましたのは、ひとえに、このあたりがいい加減になっているお陰で、上級のレベルになってから、応用が効かなくなってしまって困っているケースに出会うことが、けっこうあるからにほかなりません。
さて、タイミングがぴったり合ったとして、それがどの程度音楽的な感動に結び付くでしょうか?。無関係では無いことは確かです。何百人の合唱がピタッと合って、そのことだけで背中がゾクゾクしたという経験をお持ちの方もいらっしゃることと思いますし、要所要所が、ピタピタピタッと合って非常に心地よい気分にさせられる演奏に出会うこともあります。しかし、どう言いましても、それが音楽的な感動の第一である訳はなく、むしろ音楽的な感動を盛り上げるための補助としての意味の方が強いでしょう。
アンサンブルで音楽的な話をするならば(そしてアンサンブルを離れても)、むしろ合わせること自体よりも、「間」の存在そのものの方がより重要なものということが出来ます。今回はその辺りまで探りを入れてみましょう。
「間」とは基本的には、歌(歌詞)に付属するものです。すなわち、一文一節を棒に読んでしまうのではなく、しっかりとメリハリをつけて読めば、必然的に「間」が生じてきますし、そこに音楽的な効果も生じてきます。その意味では古今東西を問わずどんな音楽にも当てはまります。原始的な音楽の形態は、歌とあり合わせの打楽器によるアンサンブル(多くは一人による弾き語り)と考えられますが、打楽器による拍節感と、歌による「間」のどちらが音楽全体を支配しているかによって全く異なった様相を示しています。日本古来の音楽等は、歌の方が圧倒的に支配的です。打楽器を用いないものも多いですし、用いたとしましても打楽器の拍節が歌の「間」の影響を受け、いくらでも間合いが変化していってしまいます。
翻って、西洋音楽の場合は、バロック時代に、その双方が別個に発展していった所に大きな特徴があります。かたや、イタリアオペラに代表される、全く拍節感を無視するがごとくの、大ロマンチック(言葉が適切かどうか?)音楽が存在するかと思えば、こなた、数々の舞曲で代表される、延々と一定のリズムを繰り返すタイプの全くもって拍節的な音楽が存在します。そして、その両者が歩み寄り、そのお互いの長所で短所を埋め合った形となっているのが、現在の通常の意味でのクラシック音楽ということになります。ほとんどの人が認識している、フレーズの切れ目、その他節目節目で「間」をとっていく(いわゆるルバートな)スタイルはこういう形で出来上がってきたものと考えられます。こういう音楽では、いかに「間」をとるかということと、いかに拍節的に曲を進めるかということが、等しく重要性を担っています。
さて、その「間」ですが、当然ながら、演奏家の個性を華やかに彩っていく「間」と、一般的にはこうあるべきであるという「間」があり、この両者をちゃんと区別し、意識していなければなりません。前者を磨くことが、すなわち音楽性を磨くことであり(それだけを磨いても片端なのですが、いずれ自己フォローしますから突っ込まないで下さいね)、後者に精通することが、すなわちアンサンブルの能力を高めることに繋がります。そして、大切なことは、この両者をいかに両立、共存させていくかということなのです。つまり、アンサンブルで、ピッタリ合って「めでたしめでたし」というのは演奏者側の自己満足にすぎず、合うところは合うとした上でいかに個性としての「間」を、或いは共存させ、或いは戦わせていくかという一種の駆け引きが、音楽的にとても重要なこととなるのです。そうですアンサンブルの上級クラスの大きな壁は実は「駆け引き」なのです。(はーい、基本的に合わせる部分を「ルール」と考え、その上でお互いの「間」を戦わせると・・・・なんだか剣道の試合に似てきましたねえ)。
さて「呼吸」と書いて、「間」と書いてきました。この両者をあまり区別なく書いているように思われたかもしれません。また、特に区別することなくすませてしまっている人もいるかも知れません。しかし、この両者は、はっきりと区別して考えなければならないものと思います。
このお話は次回に・・・。



あんずのお話(13)「呼吸」と「間」

前回の続きです。「呼吸」と「間」について、いろいろと書いてきました。しかしこの両者はどうもいっしょに一まとめのものとして、或いは混同されて認識されている傾向があるようです。だいたい、「呼吸」はともかくとしまして、「間」のほうは明確に定義することも難しいように思います。普通、「ちょっと間をおきましょうよ」等と言った場合、呼吸も含めてしまった時間的なインターバルをおくことを意味していると考えられます。
それでは、アンサンブル或いは音楽性の話としましては、ちょっと不都合ですので、両者は基本的には別なものとして扱うのが正しいのですが、それとは別に、両方を含めた広い意味で、「間」という言葉を用いる場合もある、と理解するしかありません。言葉の定義がはっきりしていないということは、なかなか不便なもので・・。
それでは、狭い意味の「間」と「呼吸」はどう違うのかという点ですが、息を継いだならば「呼吸」、そうでなければ「間」と考えるのは早計。実際は、音楽の流れはそのまま続いていて(フレーズが続いていることもあります)、拍節的に時間を取る形を「間」、音楽の流れを変えていくタイミングで時間を取るものを「呼吸」と考えたいのです。こう考えますと、人が気が付かないように密かに息を継いでいる「間」もあれば、実際には息をしていないのに、モーションだけおこす「呼吸」もあり得ることになります。さらに、「間」には、実際には音が続いている「間」と、音が鳴っていない「間」との2種類があることになります。
さて、ここまで理解ができますと、アンサンブル或いは「音楽性」を語るときに、「間」や「呼吸」がどう関係してくるかが、非常に明確な形で見えてきます。「間」は、音楽の流れに一瞬の「溜め」を作ることによって、聞く人の心の中に音楽的な感動を生み出す一種の圧力を加えることになります。「呼吸」はその圧力を伴った緊張感をふっとほぐすことに大きな意味があります。言わば、「押し」と「引き」の関係になっていることになります。この世の中、いかに「押し」と「引き」のバランスが重要か、ということは、多くの皆さんは身をもって感じていらっしゃることと推察いたします(早い話、不遜な例えですが、恋愛テクニックが正にそうですよね)。音楽おきましても、「押し」てばかりの曲は緊張感の連続の非常に息苦しい音楽になってしまいますし(しかし現代音楽にはよくあるタイプです)、「引いて」ばかりいる曲は緊張感もない、ダラダラとした、つまらない音楽ということになります。
ところで、本当に息を継がなければならない管楽器の演奏者(あるいは歌手)がどうしているかといいますと、まず呼吸法として非常に短い時間で大量の空気を吸うという訓練を必ずやります。そうしておいて、実際の演奏の際は、音楽的に必要な時間だけかけて、ゆっくりと吸う訳です。いや、もっと細かく言いますと、ゆっくり吸っているように見える時間の内、後ろの何割かは、本当は空気は吸い終っていて、次の音を出す準備をしている時間になっています。
もう1つ、「呼吸」を入れる場合、子細に眺めますと、音が止まってから、息を吸いはじめるまでに、「間」が存在していることがわかります。上手い演奏家であればあるほど、この「間」の取り方が変幻自在、その長短を自由にコントロールすることによって、聞く人の心の動きを、いくらでも自分の思う方へコントロールしてしまい、結果として、大きな感動を引き出すということが出来るようになります。
(追記)今回のお話は、必ずしもアンサンブルについてのお話ではありませんが、書いている内に、どうしてもここまではという感じになってしまった、言わば行きがけの駄賃のようなものです。悪しからず。



あんずのお話(14)3連符

今回のテーマは「3連符」です。「3連符」ときくと、私は苦手ですという看板を鼻の頭にぶらさげたような表情をする人と、「おお!大得意!」とばかりに目がギラギラと輝く人とずいぶんはっきりと分かれますね。しかし、3連符が得意な人と、苦手な人がアンサンブルをした場合、苦手な人の方が「私は正しいのよ」と言わないばかりに、堂々と違ったリズムを演奏して、得意な人がオタオタしてしまう、という図式もあったりしてなかなか笑えます。願わくば、得意な人には、どんな変則3連符に出会っても対処出来る程、得意になって欲しいものです。
3連符自体は、実はちょっとだけそれなりの練習を積めば、誰にでも出来てしまう事だと思います。2〜3日特訓すれば、必ず出来ると断言してしまってもいいのですが、苦手意識が心理的なブレーキになってしまって、練習の効果が十分に上げられない人も出てきますので、その辺の「マインドコントロール」(言葉が悪い)というか、精神面のカウンセリングが上手くいけば、という条件を付けざるをえないのが、残念です。
3連符といいましても実質的には、早いものと遅いものと2種類に分けて考えることになります。どっちつかずのテンポはどうするのという疑問もあると思いますが、どっちか好きなほうに入れてしまって結構です。他の人と違っても差し支えありません。で、まずは早いほうを特訓してしまう、これは直ぐにできます。メトロノームの目盛りを、70〜150くらいの範囲の好きなところにあわせて、スタート、すぐに適当な3連符を弾く(ドミソドミソで結構)。メトロノームの数字をランダムに変えて、くり返す。かんぱつ入れずに弾くのがポイントです。普通は10分もしないで出来るでしょう。仕上げに、だれかに指揮をしてもらって、それに合わせる、リタルダンド、アッチェレランドをかけてもらえばなお結構!
つぎに、3連符と他のリズムを組み合わせることが問題となりますが、まずは、2と3を同時にやることだけに専念するのが早道です。これは、右手で3、左で2のリズムを(膝打ちで結構)打つことから始め、次に右2、左3をやり、それも出来たら連続してやってみる。

     右 1 2 3 1 2 3 1 2 3 1 2 3 1  2  1  2  1  2  1  2  
     左 1  2  1  2  1  2  1  2  1 2 3 1 2 3 1 2 3 1 2 3 



というやり方です。これが出来たら、人に「はい!」とか合図してもらって、そこで入れ換えるとか、テンポを変えるとかやってみます。慣れたら、


     右 1 2 3 1  2  1 2 3 1  2  1 2 3 1  2  1 2 3 1  2  
     左 1  2  1 2 3 1  2  1 2 3 1  2  1 2 3 1  2  1 2 3 




この形に挑戦してみましょう。やればわかりますが、これはやったことのない人がいきなりやるにはけっこう難しいですよ、けれども、順を追って練習すれば、意外なほどすぐに出来るようになります。
私は、片手でやる練習もしました(一例をあげれば、右手の1、2の指でドレドレ・・と弾く間に3、4、5の指でミファソミファソ・・・と3連符を入れる、もちろん同じ指を連打するならば、さまざまな指の組み合わせがあります)。
次に、ゆっくりした3連符ですが、基本は、早い3連符を頭に描いていて、それに合わせると言うことです。


     拍子     1     2     3     4     
     頭の中    1 2 3 1 2 3 1 2 3 1 2 3 
     弾く位置1  *   *   *   *   *   *   
     弾く位置2  *       *       *       



上の、弾く位置1が、いわゆる2拍3連、弾く位置2がもっとすごい4拍子に3つ入れる方法です、しかしこれも、順を追って練習すれば、すぐに出来ます。ここまでは半日が標準的でしょうか、しかしこれだけでは、機械的に正確であっても音楽的にはなりません。
またまた長いので次回に続きます。



あんずのお話(15)続・3連符

前回お話しました方法が出来るようになりますと、実はある分野では実用になります。つまり機械に合わせればよいという分野、具体的には、リズムボックス(シーケンサーも含めて)に合わせれば済んでしまう、ポップス、歌謡曲の類です。しかし、クラシック音楽ですと、若干のリズムの伸び縮みが絡んできます。
3連符のリズムの伸び縮みは、ほとんどが、テンポ自体の伸び縮みを伴います。ごくまれに、テンポは変化しないことがあり、その場合、3連符の1の部分が少し長めになる形がほとんどになります。例外は、その3連符が事実上ワルツになっているケースで、ワルツならば2が長めとなります(この表現本当は不正確なのですが・・・2が前のめりになる、と言ったほうが少しはましかなあ)。
大抵の場合は、テンポも変わるわけですが、早い3連符の場合は、複数の3連符を一まとめにしてその1のところが伸びることが圧倒的に多いのです。しかし、これは何のことはない、3連符でなくとも普通やっている方法に3連符をのっけただけのことです。
やっかいなのは、遅い3連符によくある、2、3の部分が長くなるやり方で、「3連符をよく歌って・・・」等と言う場合、多くはこの方法を用います。これを、子細に見ますと、3の音が少し遅れぎみに入り、さらにほとんどリタルダンドにちかい状態で、3の音を引き延ばします。このやり方が、実際機械的なテンポとしては狂っているのにも係わらず、とても音楽的に気持ち良く響くのが不思議と言えば不思議、これが音楽の神髄だなどと言ってしまえば、そのとおりなのです。
先に、2〜3日特訓すれば・・・、と書きました。その残りの時間は、この方法を習得することに使います。この部分に関しましては、独習は難しいですし、仮に独習可能でも、お勧めできません。ぜひ、最低でも2人で合わせるという形で、特訓してほしいものです。イタリア歌曲などで、その手の曲を見つけ、伴奏と歌を(本当に歌うのではなく、得意な楽器でOKです)分担するのが良いでしょう、どちらかというと近代ものに多いと思います。そしてぜひとも、正確な3連符をマスターしてからこの練習にかかってほしいものです。
正確な3連符は音楽ではないと思うのかどうか、正確な方は見向きもせず(?)、時間の伸びる3連符ばかりマスターしている人ってけっこういるものなのです。そういう人の一番困ることは、3連符を演奏している時に、自分から人に合わせるということが出来ないことです(敢えて全員がとは言いませんが)。3連符を演奏している間中、「これは私が正しいのだから私に合わせなさい!」という演奏になってしまいます。しかしこれはまわりに演奏者にとっては、まことに合わせ辛いものなのです(なにせメトロノーム的な意味ではずれているのですから)これは実は、ソロ歌手によくある現象です。歌の伴奏をしていて、一番苦労するのがこの点ですし、2重唱、3重唱になりますと、歌手同士の相性というのが、かなりあるらしいのですが、案外この辺に原因が潜んでいるのではないかと思います。
今回のお話は、だいたいこんな所です。私が、3連符のことを考えるきっかけになりました曲は、ショパンの2番のソナタです。1楽章の展開部で、3連符に、休符入りの4のリズムが絡んでくる部分があり、これが簡単には弾けず、「こりゃいかん」ということで、特訓方法をいろいろ考えたり、調べたりしたということです。その時、幻想即興曲を非常に遅いテンポで弾く(メトロノームで50以下)ということもやってみました。この方法はなかなか笑えます(どこが?と言われても・・・やっぱり何か笑える・・・ウン!)



あんずのお話(16)聞こえ方

アンサンブルを何度か経験するようになりますと、自分の音と、相手の音が、客観的にどういうバランスできこえているのか、という点が気になってきます。と同時に演奏しながらそれを聞き取ることの困難さも気が付くようになります。ただし、ここで取り上げる困難さとは、楽譜を追うのに、あるいは、手を動かすのに集中してしまい、他を省みる余裕がないという話ではなく、注意して聞こうとしているのにも関わらず、きちんと聞こえてこないという話です。
元来、ほとんどの楽器は、演奏者本人の耳の位置で、最良の音が聞こえるようには出来ていません。その最たるものはバイオリンです。
バイオリンを弾いた経験のない人は、すぐ耳元で妙なる調べが鳴っていて、さぞかし本人は気持ちが良いだろう、と想像するらしいのですが、とんでもない大間違いです。本人に聞こえるのは、聞くに耐えないような雑音騒音の類が強調された、とんでもない音楽なのです。よく美人のバイオリニストが、一見優雅に気持ち良さそうに、バイオリンを弾いていて、よくよく見ると、眉間に縦皺が寄っている、という写真を見かけます。これなど、本人は雑音騒音に必死に耐えながら、聴衆を魅了する音色が鳴っているかどうかに一所懸命耳を傾けている、健気な姿なのです。
バイオリンでは、演奏者の周りのいろいろな位置に、マイクを置いてみて、どの位置がいい音がするか実験してみたことがあります(もちろん機械で測定した訳ではなく、聴感に頼っただけのいいかげんなものですが)。その結果は、予想どおり、普通にバイオリンを構えて、聴衆がいる方向と真上の方向がいい音がし、演奏者の耳のある方向は最悪でした。1メートル以上離れたほうが音が良かったのですが、これは、適度に反射音が聞こえていたほうが良く聞こえる、ということなのでしょう。
バイオリンばかり書きましたが、他の楽器でも多かれ少なかれこういう問題を抱えています。ピアノは、一見関係なさそうなのですが、ピアノほど(グランドタイプ)客観的な音量のわかりにくい楽器もないでしょう。一人で弾く場合は、相対的に音量を聞いていればいいので、問題がありませんが、伴奏などになりますと、すぐに他の奏者とのバランスが判断がつかなくなり、居合わせた人に手当たり次第に「ピアノの音量は、どうですか」と聞いて回ったりすることになります。
そしてもう一つ、重要なことは、俗に近鳴り遠鳴りといわれている現象です。どの楽器の場合も(声楽も含めて)熟達して、音色的に磨きがかかってくると、音が遠くまで届く(響く)ようになります。この現象を俗に遠鳴りと呼び、そこまで熟達していない奏者が、近くで聞くと騒々しい程の音を出していながら、遠くではあまり聞こえていない現象を近鳴りと呼んでいます。これを科学的に説明するのは、なかなか困難で、私には訳が分かりません。はっきり言えることは、確かにあるという確信だけです(だれか説明できる人がいらっしゃいましたら、お助けを)。
遠鳴りの場合、近くではそれ程の音量は感じません。ですから、そういう奏者が、アンサンブルをした場合、お互いに相手の音ばかり聞こえているという奇妙な現象がおこってしまいます。これは経験者にしかわからない世界なのですが・・・。
あるオペラ歌手から直接聞いた話なのですが、時々自分の出している音(声)が、全く聞こえなくなり、どうしようと思いながら歌うという状況に陥ることがあったそうです。そして、そういう演奏に限って、聞いた人からは「すごい声が出ていて感激した」という感想が寄せられるということです。そして、自分の音がよく聞こえていて「よし!今日は調子がいいぞ」と思っていると、「今日は声が出ていなかったね」と言われるということでした。
これは、自分自身の経験なのですが、オケでホルンを吹いていた時、いくらがんばって吹いても、自分の音が全然聞こえている感じがしないということがありました。しかも、トロンボーンのあたりでやたらと音量を出しているバカがいて、うるさくてたまりませんでした・・・・。しかし、よく聞いてみるとそのバカは自分と同じフレーズを吹いている、しかもトロンボーンが休んでいてもまだ吹いている・・・・・?。実は、自分の音が壁で反射して帰ってきた音だったのでした。(それもわからない程、初心者状態だったのか?はいはい仰せの通りです)
アンサンブルにおきまして、バランスを考えることは、この様な次第で、どんなに経験を積んでも、熟練しても、いつまでもつきまとってくる問題なのです。で、経験を積んだ人がどこで判断しているか、ということですが、たいていの場合は、残響音に耳を傾けて、判断しています。それで、9割方判断がつくようになれば、十分といえましょう。
一つだけ、私が実験してみた方法があります。それは、客席のマイクでひろった音を、ヘッドホンでモニターしながら演奏するという方法で(この時はピアノを弾きました)、自分の演奏ではないような気分になってしまって何か奇妙なのですが、どんな人に聞いて回るよりも確実に100%の判断が出来て、私にとっては、随分有効な方法でした。ただ、皆さんにお勧めするべきかどうかは、ちょっと判断に迷います。



あんずのお話(17)ティンパニ

今回は体験談です。
一度だけですが、本番でティンパニを叩いたことがあります。
それまで、パーカッションはやったことがありました。だいたいアマオケでは慢性的なメンバー不足があるもので、ちょっと大がかりな曲をやろうとすると、メンバー補充が大きな問題で、けっこう何でもやってしまう私なんかはずいぶん便利使いされたものです。「ちょっと低弦が・・・・」なんて言われて、のこのこ出掛けていくと、「いや、急にパーカッションが一人来れなくて」なんて言われて、「でかい楽器運んできた労力はどうしてくれるんだ・・・ブツブツ」なんて言いながら、けっこう楽しんでいたものです。ホルンのおり番の曲でちょいとお手伝いなんてこともありました。だいたいそういう時はトライアングルとかシンバルとかが多かったと思います。チェレスタってこともありましたが、急に頼まれるはずがありませんから話は別ですよね。「トライアングルだってバカに出来ない」と言われそうですが、1回だけ楽器が半回転してしまって、音を空かしてしまい恥をかいたことがあれば、そうそう2度目はおこりません(ゲネプロで良かった)。「シンバルだって・・・・」、こちらはなるべくコンパクトなアクションでタイミングを外さず、バシッと打ち合わせ、その後派手派手に大見得切るコツさえ掴めばだいたい問題ありません。それでも問題のあるような曲の場合は、レギュラーのメンバーが2〜3人はいるのですから、そちらにお任せすれば良しとしたものです。
そんなシチュエーションがいくら続いたってティンパニを叩く話にはなるはずがありません。それは、ある合唱団の演奏会でのことで、ピアノ伴奏を頼まれていました。その演奏会は、前半がピアノ伴奏、後半がオケで、前半のみでお役御免になるはずでした。ところが、ある日「ティンパニが決まっていないのですが叩きませんか?」というお話、だいたいピアニストつかまえてそんな話するなんてよほどどうかしているのですが、どうも、パーカッションをやっていた話を知っている人がいたらしいのです。「曲は?」「戴冠ミサ」「楽譜ありますか?」、ロール打ちの自信が全くありません。断るつもりで楽譜を見てみますと、ロール打ちが書いていない・・・・・。「やりましょう」、頼む方も頼む方なら、引き受ける方も引き受ける方で・・・・・・。
それでは、ということで、そのまま楽譜を受け取り、練習日は何時何時とメモし、勇んで家へ帰り、楽譜を広げ、「それでは練習・・・・・・・・・・・!?!?」「れ・・練習できない!!!」、だいたいティンパニをお家に置いてある人はそれほどはいませんよね(大笑)
さて、それからどうしたか、といいますと、イメージトレーニングあるのみ!!。まあイメージトレーニングには自信がありました。ファゴットを手にして(借りてきて)1週間で半音階をマスターし、即オケのリハへ合流、2ヶ月後には、ステージにアシ無しで乗ってしまった前科(?)があります。ファゴットなんて楽器、一日に何時間も練習できる訳がありません。楽器を手にする時間は、長くても一日1時間、イメージトレーニングが短くても8時間、終いには夢で見るようになり、そうなればしめたものです。
ティンパニの楽譜自体は、長い休みがある以外は幼稚園生でもこなせるものです。しかも事情が事情ですので、借りた楽譜を忘れずに持っていく以外は、全てお膳立てを整えておいてもらえます。「なんと気楽な・・・」という感じで勇躍オケ合わせに出掛けました。
さて、いざ合わせてみると・・・・。合わないこと合わないこと!!
次回に続く。



あんずのお話(18)ティンパニの続き

それでは、何が合わないのでしょうか?
実は、この部分をどう書くべきか、大分迷いました。ポイントは指揮者との呼吸の話になるのですが・・・。
ティンパニは、本質的に大きなモーションを必要とします。従いまして、指揮者の示す拍点をかなり前から予測してモーションをおこさなければなりません。ところが、その時の指揮者は、曲調に従って、手の振りの大きさも、スピードも、拍点の位置も変わってくる指揮ぶりでした。もともと、合唱団の指揮者ですので、むしろ歌の専門家で、指揮者としましてはプロとは言えない訳で、致し方がないのでしょうが、それが、合わせにくいのだということは、ティンパニを前にして初めて実感できた次第です。
考えてみれば、ピアノの場合は、手を鍵盤の所に置いておいて、素早く音を出せばそれで合わせられますし、問題はありませんでした。もちろん、ピアノでも大きなモーションを使うことはありますが、ピアニストが合わせる立場にある時には原則としては使わないようにして、他の場合と使い分けるのが筋でしょう。
指揮者に合わせにくいとなりますと、どうするか・・・・。耳で合わせられれば良いのですが、さすがに空間的な距離がありすぎて、遅れてしまいます。指揮者の呼吸を見るのはどうかといいますと、不可能ではないのですが、やはり距離がありすぎて、必要以上の注意力が必要で、そのぶん楽譜を見落としたりで、あまりうまくありません。そう考えてみますと、指揮者の指揮ぶりに楽団員が文句がある場合、真先に口を開くのが必ずティンパニ奏者だったことが、実感を伴って思い出されます。結局、オケ合わせの初日はコンサートマスターばかり見て過ごすこととなりました。ハテサテ・・・・。
次のオケ合わせまで、10日程あったでしょうか・・。その間にやったことといいますと、自分で指揮をするつもりで、曲の勉強をしてしまう・・。これです!!曲がモーツァルトですので、そんなに変わった解釈になるはずがありません(ホントかなあ)。ティンパニ奏者を「影の指揮者」と呼ぶこともあるようですが、良く言ったもので・・・。借りた楽譜にあまり変なことも書けませんので、コピーを取り、指揮者が書くような書き込みをいろいろ入れて、他のパートの譜面も必要に応じて書き入れ、勇躍2回目の合わせです。
さあ、そうなりますとよく合うこと・・・・。後で良く思い返してみますと、やはり指揮者とはずれたこともあるのですが、オケの他のメンバーがつられて、こちらに合わせてしまうのですね。とにもかくにも、これでもう大丈夫。キャリア10年のベテランのような顔をして、本番を済ませることが出来ました。
その指揮者から、ティンパニを叩いてほしいというオファーが2度と無かったことは、言うまでもありません。しかし、その演奏を観た別のオケの関係者から、打楽器のトラをやってほしいとのオファーがありましたので、演奏は上手くいったように見えたらしい(?)のです。



あんずのお話(19)伴奏者

今回は、アンサンブルにおける伴奏について、考えてみたいと思います。
そもそも、伴奏とは何でしょうか?
典型的な例を考えるとすれば、「弾き語り」をする時の楽器演奏の部分を考えるのが、相応しいと思います。リュートあるいは地域によっては竪琴を抱えた「吟遊詩人」を考えてもいいですし、今の時代ならば、ギターを抱えたフォークシンガー、もしくは大道芸人でしょうし、琵琶を抱えた琵琶法師も、立派な一員です。似たような例は、どこの国でもどの時代でも存在します。
やはり、「歌」に対する「伴奏」という図式が第一義だと思います。「楽器」に対する「伴奏」ということもありますが、どうもまず楽器で歌うことを考えて、それに「伴奏」をつけるという、頭脳的な操作があって、初めて成り立っているように思えます。つまりは、第二義的な図式と理解しています。
楽器の場合は、むしろ「共演」という形が多くなります。これは、ある時は、「歌」と「伴奏」であったとしても、別のある時は役割が入れ替わっていたり、双方が「歌」であったり、「歌」とは別のものであったり(むしろこのケースは多いと思います)と、いろいろな形の複合体であると解釈出来ます。
ところで、弾き語りの楽器演奏部分だけを取り出して聞いたとしたら、どのように聞こえるのでしょうか。これを想像することは、ちょっと戸惑いはあっても、難しいことではないでしょう。それは、多くの場合、それ自体には全く音楽的な必然性の無い、急なアクセント、テンポ・強弱の変化、突然の中断、意味の感じられない転調、の羅列となってしまうことでしょう。
なぜ、そうなのかはすぐに理解できます。それらの変化が、「歌」の方、特に歌詞によって、もたらされているからにほかなりません。歌詞の持つ意味、ストーリーに従って、いやむしろそのサスペンスを強調するように見事に効果的に鳴っている音楽であるからと言えます。
これが、弾き語りの1人の歌手兼演奏家によって演じられているぶんにおきましては、なんら問題はありません。問題なのは、歌手と伴奏者の分業制となった場合なのですが、その時、伴奏者は当人自体は、非常に非音楽的で主体性を持たない、ある意味では苦痛を伴う音楽を奏でる事を強いられていることとなります。しかし、これが本来あるべき伴奏者の姿であるとも言えるわけです。
こう書いてしまいますと、あまりにも観念的に過ぎる伴奏者像となってしまいます。現実的には、伴奏者にも伴奏者としての音楽的な歓びもある訳です。ただ、その歓びを見いだす目的で、音楽的な主張を伴ってくる演奏をした場合は、やはり「共演者」と呼ぶのが筋で、「伴奏者」とは区別して考えざるを得ないと思います。
さて、「伴奏者」がどういうものであるのか、具体的に考察を加えると、どうなるのでしょうか。
長くなりそうなので、次回に続きます。



あんずのお話(20)伴奏者の続き

さて、大分期間が開いてしまいましたが、前回の続きです。
伴奏者の立場だとどういう事がおこるのか、具体例を書いてみましょう。典型的な例を考えるならば、オペラのアリアをピアノ伴奏版で演奏する場合を思い浮かべると良いでしょう。
歌が朗々と情感を込めて歌った旋律の直後に、同じフレーズを伴奏(ピアノ)が繰り返すというパターンはわりと多く見かけます。普通の共演者としての感覚ならば、「よし、自分の番だ!」と勇んで朗々と歌う(が如く)ように弾くこととなるでしょう。いや、アンサンブルテクニックに長けたピアニストならば、歌手の歌い方のニュアンスをしっかりと感じ取り、それと全く同じニュアンスで弾くこととなります。いやいや、もっと出来るピアニストならば、歌のニュアンスをしっかりと感じ取り、それに対話として答えるように弾くこととなります。
そこまで出来たならば、アンサンブルテクニックとしましては余裕で合格点です。
これで、全く見事な演奏となりました・・・・。
歌手の方に感想を聞いてみましょう・・・。
「そんなことされちゃ、間がもたない。もっと早く弾いて!!!」
これで大喧嘩して、「もう二度と歌の伴奏なんかやるもんか!!!」と、いうことになってしまった例というのはけっこうあるらしいのです。ただし、これは人づての話で、本当かどうかをしっかりと確かめているとは言い難いですし、多少眉唾物かも知れません。でも「歌の伴奏はやりたくない」と、言っているピアニストには何度か出会った事がありますので、けっこう本当のことだったりするのかも知れません。
ここに、伴奏者としての立場が集約されているのではないでしょうか。
歌手は、アリアを歌うときには、全く自分一人の世界に浸りきってしまいます。そこには伴奏との対話などというしゃれた話はどこにも存在しません。自分一人の世界で、歌い、演技をすることとなり、伴奏は例えどんなに美しい音楽を奏でていようとも、歌手の演技の間を持たせる存在にしか過ぎません。
演技が一段落して、今にも歌おうとしている時に、伴奏が朗々とやっていたのでは、「間が持たない」となってしまうのは明白で、そんなときは旋律美など省みず、大急ぎで歌い出しの所まで吹っ飛ばさなくては、正しい伴奏とは言えません。逆もまたあり、演技が終わらない内に歌い出しの点まで到達しそうになり、小節線も拍もフレーズも無視、ひたすらフェルマータの連続という事だってあります。
コンサート形式の演奏会と、演技付きのコンサート、オペラとしての本番では、同じ曲でもタイミングが異なるのは当たり前。本番でのちょっとした事故・・演技者がちょっと躓いたとか、服の裾がどこかに引っ掛かったとか・・・に従って如何様にも延びたり縮んだり・・というのが正しい伴奏(者)のありかたでしょう。
こういう風に書いてきますと、伴奏者というのは、全く自らの音楽的な歓びを得ることのない虐げられた存在のように感じられる事でしょう。しかし、物は考えよう、ちょっとした発想の転換で、一度伴奏者の醍醐味を味わったならば、おいそれとは止められない、非常に面白い物であると思うようになります。
実は、一見歌手が自分の思うままに歌っているようでいて、演奏をコントロールしているのは伴奏者の方なのです。もっとも、本番で伴奏が勝手に進んでしまったら、まず歌手の方で合わせざるを得なくなるはずですが、本当にそんなことをしたら後でどういう事態が引き起こされるのか………。しかし、歌手が気付かない、あるいは不快に思わない微小なタイミングでコントロールすることも出来るのです。むしろ、歌手があせったりして変な方へ行かないように、又気持ち良く歌える方向に持っていくという芸当が可能なのです。
その場合、伴奏という立場である限りは下請け会社同様ですので、指揮者或いは演出家いやむしろ総監督の立場に勝手になってしまう、と考えるのが手始めです。そうしておいて、多少我が儘もある歌手をどうコントロールして、舞台芸術として優れたものにまとめあげるか、という事に意を注ぐこととなります。平たく言えば、お釈迦さまの手の上の孫悟空状態にしてしまう、ということです。
歌手にその事を意識させないのが、最大のポイントです。そして、たとえ歌手が譜面を間違って歌った場合でも、何食わぬ顔でそのまま合わせて弾き、観客はおろか歌手にさえその間違いを気づかせないような演奏が出来たとしたら・・・・、伴奏者が一人でほくそ笑む瞬間です。ただ、めったには訪れませんが・・・。
なお、お気付きとは思いますが、私は、この意味での伴奏者はオペラのアリアしか対象として考えておりません。器楽作品、或いはリート場合、そして合唱等でも、ピアノパートをちゃんと音楽的に処理しなければなりませんので、ピアニストは共演者であるという考え方を取っています。



あんずのお話(21)スタッカート

「スタッカートは手首を使って跳ねるように弾きましょう。」
ピアノの教則本にはこのような記述が散見いたします。で、先生も生徒も、より鋭く、より短くをモットーに日夜練習にはげんでおります。
「先生!これは何ですか?」
「ああ、それはもっと短いスタッカートですよ」
「・・・・・(目が点)」
くさび形スタッカーティシモは、スタッカートを勉強してかなり経ってから出現するのが通常です。
で・・・・さらに鋭く、短くなるように懸命に練習に取り組むのでした。
めでたしめでたし・・・・。
これで終わりでしたら、お話としましてはとっても楽なのですが・・・。
「なんか変だな」と思う生徒もいるでしょう。いやむしろこう思う生徒の方が賢明とも言えるでしょう。で、誰かに聞いたり、本で調べたりします。
「スタッカートは音の長さを1/2にします。スタッカーティシモは1/4・・」楽典の本を始め、辞典その他にはこういう意味が書かれています。教則本はウソを書いているのでしょうか?先生はウソを教えたのでしょうか?
スタッカートはもともと音を単に短くする、もしくは音と音の間を空ける、という意味が本来の意味なのですが、「跳ねる」「鋭くする」という意味がプラスされるケースがあります。どちらかと言えば特殊なケースなのですが、作曲家によって、又時代の変遷によって、いろいろあります。つまり、「この作曲家ならばこう弾きましょう」という考え方が必要になってきます。
しかし、ピアノの教則本にそればかり書いてあるのはどういう理由なのでしょうか?実は、手首を使って弾くというのは、ピアノを弾くためには是非ともマスターしたい重要な基本テクニックだからです。本来はスタッカートとは切り離して考えるべきなのですが、丁度練習にはもってこいとばかり、スタッカートと強引に組み合わせてしまっているのです。実際、手首の練習に限って考えれば、一番効果的でもあります。
しかしながら、生徒が正しい音楽性を身につける目的にとっては、明らかに弊害があり、このシリーズのテーマである、アンサンブルのお話としましてもかなりの問題点があります。
翻って考えてみますと、他の楽器で「跳ねる」ということは考えられないのではないでしょうか。バイオリンを例にとりますと・・・、バイオリンの先生がどう仰るのかは、私は想像以上のことはわからないのですが、おそらく「こう弾くんだよ」と実際に弾いて見せて、真似をさせるということと思います。そして弓が楽器に対して、ちゃんと水平運動になっているように注意すると思います。
もちろん、バイオリン始め擦弦楽器は弓を跳ねるように弾く奏法が出来ます。けれども、これはスピカートと言って別のテクニックであって、スタッカートではありません。
さて、こういうピアノとバイオリンがアンサンブルをしたとしましょう。お互いが自分のやり方が正しいと思っていると、なかなか上手く合わないのは目に見えています。ちゃんとした先生に教わった方法が正しいとは言えない、という点にはなかなか気が付かないものです。
ただし、お互いが問題点を正しく把握していれば、たいした問題にはなりません。
スタッカートは音を(半分くらいに、但し比較的長いものもあります)短くします。ただし、時と場合によっては「跳ねる」という意味、「鋭く」という意味が加わる事があり、作曲家によって、あるいは時代によって判断する必要があります。総じて、時代が下る程、特殊なケースが増えてきます。なお、「跳ねる」と「鋭く」は別々に考える必要があります。
以上の事がポイントでしょう。
賢明な皆様はお気付きと思いますが、近代以降は、バイオリン等ピアノ以外の楽器でも、特殊なケースが現れることがあります。このことも重要な注意すべき点と言えます。